ケイは毒づいた。
何か。
何かがあったのだ。
はっきりと思い出せないが、霧の中で、何(・)か(・)に―
ぶるるっ
と、短く鼻を鳴らす音に、ケイの思考が遮られる。
……? どうした、ミカヅキ
見れば、ミカヅキがいつの間にか半身を起こし、首を巡らせて周囲の様子を窺っていた。その両耳はせわしなく動き、先ほどまでは眠たげだった瞳も今は剣呑に細められている。
ケイは知っていた。この表情、この動き。ここに来る前、ゲームの時代から、ミカヅキのAIに組み込まれていた。
―何かを、警戒する動作。
傍らに置いてあった 竜鱗通し に、ケイはそっと手を伸ばす。
……どうかしたか?
焚き火を見つめていたアイリーンがそれに気付き、不安げな様子を見せる。分からん、とだけ短く答えて、ケイはおもむろに立ち上がった。
ミカヅキが警戒してる。……獣かな
仮にこの世界が DEMONDAL に準じているのであれば、狼などがいても不思議ではない。それほど深い森ではないので、一人では手に負えないような、凶暴なモンスターは出てこないと信じたいが―。
腰の矢筒のカバーを外しながら、暗闇を見透かそうと目を見開く。炎の明かりの届かぬそこは、常人では知覚の及ばぬ領域。しかし、まばたきほどの間に、ケイの瞳は限界まで瞳孔を開き、即座に環境に適応する。
…………
北側の森には、特に異常は見受けられない。時折コウモリや小動物の影が見えるが、それだけだ。
では翻って、木立の向こう、南側の草原はどうか。
夜風に揺れる茂み。―いや、違う、風のせいではない。
何かが、いる。
その瞬間、首筋に焼け付くような感覚が走った。
ほぼ同時、カヒュン、というかすかな音。
考えるより先に体が動いた。咄嗟に身を伏せる。手を伸ばせば届く距離、風を切る音。かつん、と背後の壁に、一本の矢が当たって跳ね返った。
―何者かに矢で射られた
―なぜ攻撃してきたのか
―数は、方向はどちらか
脳裏を駆け巡る思考。が、それを遮るようにして新たな殺気。
弾かれたようにそちらを見やる。鳴り響く微かな音。手練の一撃か。巧妙な”隠密殺気(ステルスセンス)”。辛うじて感知するも、即座に悟る。
これは自分を狙ったものではない。
殺気の向かう先、その軌道を辿れば―金髪の、少女。
アイリーン、避け―
どすっ、と。肉を打つ、鈍い音。
……え?
その呟きは、さも不思議そうに。きょとん、とした表情で、アイリーンは自分の胸を見下ろした。
右胸に―矢が一本、生えていた。
信じられない、という風に。目を見開いて。
こちらを見る。なにが、と。問いかける視線。
……ぁ
ぐらりと、その身を傾けた少女は、
アイリーンッ!
―糸が切れた人形のように、その場に倒れ伏した。
6. 逃走
ケイの行動は早かった。
クソッ!
毒づきながら、足元の焚き火を蹴り飛ばす。焚き木の炎が散らされ、辺り一面を暗闇が覆い隠した。
アイリーンっ
素早く駆け寄り、抱きかかえ、転がり込むようにして廃墟の石壁の裏に身を隠す。
俗に言う”お姫様抱っこ”の体勢―しかし、肝心のお姫様(ヒロイン)の胸に矢が突き立っているようでは色気もクソもない。腕の中にすっぽりと収まるアイリーンの華奢な体は、驚くほどに軽かった。
しっかりしろ
ささやくようなケイの呼びかけに、アイリーンは答えられない。苦悶に顔を歪ませて、ハァッ、ハァッと浅く短く呼吸を繰り返している。手の平を這う、ぬるりとした血の感触に、ケイは顔を青褪めさせた。
―失敗した。
焚き火の明かりを隠すため、こうして木立に身を潜めていたが―その考えが甘かったということが、最悪の形で示されてしまった。
(ゲームの中でさえ、警戒が必要だったっていうのに……!)
盗賊NPC、火を恐れない夜行性のモンスター、あるいはPK(プレイヤーキラー)。夜に、しかも少人数で不用意に目立つ行為は、ゲーム内ですら危険だった。
ま(・)し(・)て(・)や(・)異(・)世(・)界(・)と(・)も(・)な(・)れ(・)ば(・)。
せめてもう少し、草原側にも目を向けていれば、とケイは己の迂闊さを呪う。アイリーンは『視力強化』の紋章を刻んだケイほどは夜目も効かないし、“受動殺気(パッシブセンス)“にも長けていない。最高レベルの視力、弓という遠距離攻撃の手段、そして殺気に対する感受性。それらを兼ね備えたケイこそが、警戒役を引き受けて然るべきだった。
少なくとも、暢気におしゃべりを楽しんでいる場合ではなかった―
ぐらぐらと視界が揺れるような感覚と共に、自責の念に押し潰されそうになるが、
う……ケ、イ……
腕の中、額に脂汗を浮かせたアイリーンが小さく呻く。それを見て、ぐるぐると渦巻いていたケイの頭の中が、すっと冷えた。
(―今は、どうするかだ)
時間が惜しい。思考を切り替えた。
そっと壁の陰から頭を出して、辺りの様子を窺う。焚き火の光が失われた今、夜の木立は僅かな星明かりに照らされるばかり。それは、ほぼ暗闇に等しい空間であったが―強化されたケイの瞳は、そこに潜むものを鮮やかに映し出した。
(三人、……五人、いや六人。見える範囲でこれか)
草陰にうずもれるように蠢き、徐々に距離を詰めようとする人の影。壁の死角も考慮すると、伏兵があと二、三人はいると見ていい。完全に囲まれていた。
この襲撃者が何者なのか―ということは、この際おいておく。
重要なのは、連携する程度に知性があり、弓矢を保持した人型生物に包囲・攻撃されている、という事実だ。
……Oй……Пoчe……y……
細かい震えを起こしながら、アイリーンがうわ言のように呟く。よく聞き取れず、意味は分からなかった。ぼんやりとした目つき、焦点が合っていない。暗がりで見えないが、顔色も悪そうだった。
喋らなくていい、じっとしてろ
耳元に囁きながら、どうするべきかを考える。
―決断は、早かった。
ミカヅキ、サスケ、来い
呼びかけに、ぶるるっとミカヅキが答える。アイリーンの傷に障らないよう慎重に、しかし素早く、ケイはミカヅキに跨った。
アイリーン、ちょっとの辛抱だ。耐えてくれ
ケイの言葉は届いたのか。アイリーンは小さく何事かを呟きながら、曖昧に頷いた。
行くぞッ!
ミカヅキの横腹を蹴る。果たして褐色の馬は、いななきの声ひとつ洩らさずに、滑るようにして走り出した。
馬だッ
逃げるぞッ!
壁の裏から飛び出したケイたちの姿に、伏せっていた襲撃者たちが立ち上がる。
カヒュカヒュン、と弓の鳴る音。
ケイの顔が強張る。咄嗟に手綱を引き、ミカヅキの進路を横にずらした。