……?
だが、引いた手綱が全く動かない。首を傾げたケイは、手綱をたどるようにして視線を動かし、馬に目をやる。
……ミカヅキ? どうした
名を呼びながら、異変を感じたケイは愛馬に向き直った。
手綱を握ったまま、乗騎―ミカヅキの顔を見るも、ミカヅキはまるで剥製にでもされてしまったかのように、微動だにしない。
……おーい、ミカヅキ?
ひらひらと、ミカヅキの顔の前で手を振る。普段なら、飼い主であるケイをトレースするように、首なり目なりを動かすはずだ。
が、ミカヅキは真っ直ぐ前を見たまま、全く動かなかった。
……どうなってんだ
バグか? とケイはため息をつく。
やっぱりログアウトしようか、とさえ思った。
なんだかもう、この場をすぐに去ってしまいたい、と。
ぶるるっ
そう思った矢先、まるでエラーを起こしたコンピュータが再起動を果たしたかのように、ミカヅキが鼻を鳴らして首を振った。
おお、戻ったか、良かった
ぶるるっ、ぶるるっ
ほっと一息つくケイをよそに、ミカヅキは鼻を鳴らす。
ぶるるっ、ぶるるっ、ぶるるるるっ
すぐに、何かがおかしい、と気付いた。
ぶるるるるっ、ぶるるるるるるるっ
頭をぶんぶんと振りながら、ミカヅキは鼻を鳴らし続ける。
ぶるるるるるるるるるるるるるるるるる―
終いには、まるで壊れた玩具のように、ブレて見えるほど激しく首を振り回し、そのいななきはまるでエンジン音のようで、
……ミ、ミカヅキ?
恐る恐る、ブレまくる顔に手を伸ばし―
ぴたり、と。
ケイの手が触れる寸前で、ミカヅキはその動きを止めた。
……
ミカヅキの目が、すっとケイを捉え、その口が開き、
ミ” カ” ツ” キ” ィ
ひび割れた低音の声が、
うおっ!?
ぎょっとしたケイは、思わず後ろに飛び退ろうとして、足をもつれさせその場に尻もちをつく。
…………
意味が分からない。唖然としたまま、阿呆のように口をぽかんと開けるばかりで、言葉は何も出なかった。
普通、ペットは喋らない。
当たり前だ。所詮は馬。
人間の声は出ないし、出せない。
出せない、筈だった。
…………
剥製のようなミカヅキの顔が、真正面から、こちらを見つめる。
ガラスのような目の玉が。
じっと、ケイを見つめたまま、動かない。
ぐわんぐわんと、視界が揺れるような。
口の中が、からからに乾いていくような。
そんな錯覚が、ケイを襲った。
……ぶるるっ
どれほどの時間が経ったか。
再び、鼻を鳴らしたミカヅキは、ケイからふっと目を逸らした。
そのまま踵を返し、主人であるケイを置いて、霧の中へと駆け去っていく。
だんだんと遠ざかる蹄の音は、やがて聴こえなくなった。
静寂。
…………
呆気に取られたケイだけが、ひとり残される。
かひゅーっ、と。
ケイの喉が、大きくかすれた音を立てる。
ようやく肺機能が復活したケイは、このとき初めて、己が呼吸を止めていたことに気が付いた。
しばし、尻もちをついたまま、浅い呼吸を繰り返す。
静謐な霧の世界に、ぜえぜえと喘ぐような声が、響いて、吸い込まれて、消えていった。
……落ち着け。……落ち着け、落ち着け……
己に言い聞かせるように、小さく呟きながら。
胡坐をかいて座り直したケイは、胸に手を当てて、ゆっくりと深呼吸をした。
ようやく心臓の動悸が治まったあたりで、ふう、と大きくため息をつき、頭痛をこらえるように眉間を抑える。
黙考すること、数秒。
……。落ちよう
ケイは、この状況から逃れ去ることを選択した。あまりにも、気味が、悪かった。
顔面蒼白のまま、ケイはログアウトするため、思考操作でメニュー画面を呼び出そうとした。
しかし、いつもなら特に意識せず実行していた操作が、上手くいかない。
何度メニューを呼び出しても、出てこなかった。
……なんで出てこないんだよ
ぼそりと、呟く。
まさかこのまま。
ログアウトできずに―。
ふと、そんな考えが脳裏をかすめる。背筋に、ぞっと冷たいものが走った。
誰もいない。
一人きりで、霧の中。
じわりと体の表面が熱くなり、体の芯は逆に冷えていくような、そんな感覚。
……くそっ。なんで上手くいかないっ
苛立たしげに呟きながら、頭を振って再び思考操作を試みる。失敗。試みる。失敗。試みる。
失敗。
……っ!!
焦りと苛立ちがピークに達そうとした、まさにその瞬間、ケイの眼前に音もなく、半透明のウィンドウが現れた。
無機質な白色の画面には、いつものように、現在時刻とGMコール、そしてログアウトの表示が三つ、浮かんでいた。
目線でのカーソルコントロールを試みると、これまでの無反応が嘘だったかのように、メニュー画面は快適な操作性を示す。
まるで、いつも通りだった。
……よかった
それを見たケイは、ほっと安堵のため息をつく。
正直なところ、状況が不気味すぎて、『心霊現象にでも巻き込まれてしまったのではないか』、と。
そんな他愛もない妄想が、心の中で膨れ上がって、どうしようもなくなっていたのだ。
……ゲームの中なのにな
強がるように鼻で笑いながら、ケイは『Logout』のボタンに手を伸ばし。
触れた。
ノ” カ” ワ” ケ” イ” イ” チ”
その瞬間、ケイの真後ろから。
ひび割れたような低音の声が、吐き気を催すような強烈な殺気が、
!??
何故に本名、不気味な声、凄まじい殺気、意味が分からずに、転がるようにしてケイは立ち上がり、地面を蹴って距離を取り、振り返りながら弓を構え、矢をつがえ、弦を引き絞り、
しかしそこで動きを止めた。
人がいた。
まるで死人のように、真っ白な肌。
なぜか全裸だった。いや、股間に生殖器が見当たらないあたり、全裸といっていいものか。まるで宇宙人のように。つるつるとした体。
頭部には、一切毛髪は見当たらなかった。というよりも、人形(ヒトガタ)はしているが、これを人と呼んでいいものか。
顔はのっぺらぼうのように、まっさらで。
ただ、目のあるところに、黒い穴が二つ。
―
一瞬の思考の空白、 何だコイツは という、純粋な疑問が脳裏を駆け巡る。
と、人形(ヒトガタ)の顔、ちょうど、口に当たる部分が、ぐぱりと横に裂けて、
ヨ” ン” タ”
ぐわんと、視界が揺れた。
がくりと、その場に膝を
そこで、意識が途絶えた。
3.
ぼんやりと、夢を見ていた。
幼い頃に、友達と外で遊んでいる夢。