無邪気に、楽しそうに。
鬼ごっこだろうか。走り回る自分の姿。
さらりと砂のように。
溶けて消えた。
白い部屋。
窓の外を眺めていた。
翼を広げた鳥が、羽ばたいていく。
青い空に描く軌跡を、ただ目で追った。
清潔なベッドの上。ぴくりとも動かずに。
動けずに。
そっと瞳を閉じる。
視界が青く染まる。
たゆたう水色の世界。
息は苦しくない。
そ(・)う(・)い(・)う(・)風(・)に(・)、出(・)来(・)て(・)い(・)る(・)。
怖くはなかった。
沈んでいく。自分の内側へと。
深く、深く―
†††
―しばらく、歩き続けたと思う。
目の前に、鏡があった。
何も映っていない、鏡。
いや。
目を凝らせば、見えてくる。
浮かび上がってくる。
黒い髪、黒い目。
精緻な装飾を凝らした革鎧。
羽根飾りのついた兜。
腰にはひと振りのサーベルに、矢筒。
そして左手には、朱塗りの、強弓。
……俺だ
ぽつりと呟いた言葉は、確かに響いた。
それと認識した瞬間、はっきりと形を成す。
ケイ。
かつて、自分が名付けた。
そして、今までを共に生きてきた。
……俺の、身体(からだ)
ぐっと、拳に力を込めた。
絶えず収縮する筋肉の躍動を。
全身を駆け巡る血潮の流れを。
末端まで広がる神経の瞬きを。
強く、感じ取る。
いつの間にか、目の前の鏡は消え去っていた。
代わりに、真っ直ぐと道が伸びている。
心なしか、自分の周囲がにぎやかに感じた。
元気に駆け回る馬の姿や。
羽衣をまとった少女の姿。
まるで走馬灯のように。
それらの影を、幻視した。
行こう、と。
誰に言うとでもなく、呟いて。
その一歩を、踏み出した。
4. アンドレイ
―ケイ! ケイっ!
声がする。
起きろ! おいケイ! 起きろってば!
ぐらぐらと、三半規管が身体の揺れを訴える。
どこか懐かしい感覚だ。
幼い頃、船に乗って酷く酔ったときのそれに似ていた。
……やめろ、揺さぶるな
吐き気をこらえて呻きながら、うっすらと目を開ける。
!! 目が覚めたのか!
視界に飛び込んできたのは、オレンジ色の―これは、夕焼けに染まった空だろうか。そして、自分を心配げに見下ろす、黒い影。
金髪碧眼。黒鉄の額当てに、全身を覆う黒装束。
ひとりの”NINJA”が、そこにいた。
……ここは?
自分が仰向けに倒れていることに気付き、ケイはゆっくりと上体を起こす。
周囲を見回した。茜色に染まる、一面の草原。
振り返ると、背後にはごつごつとした、大きな岩山がそびえ立っている。
草原はともかくとして、この岩山には見覚えがない。
……どこだ、ここ
オレにも分からねえんだ!
寝起きのように霞みがかった思考のまま、ぽつりと呟いたケイの言葉に、NINJAが反応する。きついロシア訛りの英語。
気付いたらここにいて……でっ、でも、見てくれよケイ! ほらこれッ! どう考えてもおかしいんだ!
NINJAはそう言って、足元の草を引っこ抜いて見せた。
草の根に付着していた土が、ぽろぽろと地面に零れ落ちる。
……何だと?
あ(・)り(・)え(・)な(・)い(・)。
ぼんやりとしていた頭が、一気に冴えた。驚愕に目を見開いたケイも、手元の草に手を伸ばす。
無造作に引き千切った。
ぶちぶちと、繊維がちぎれる感触が指先に伝わる。
草の青臭さが、土の匂いが、鼻腔をはっきりと刺激した。
指先に付着した草の汁を、舐めとってみる。
もちろん、苦かった。
……そんな、バカな
手の中の草は、引き千切っても消えることはなく。
五感すべてに、その存在を訴えかけてくる。
地面の土も、その粒子の一粒一粒に至るまでが、全て知覚できた。
なっ!? おかしいだろ!?
あ、ああ
必死の形相で詰め寄ってくるNINJAに、少し気圧されながらも、ケイは頷いた。
いくら世界最高峰の物理エンジンを誇る DEMONDAL といえども、土壌や雑草などのオブジェクトへの干渉は、幾つかの例外を除いて大幅に制限されている。そんな微細な物体の運動までを演算しようとすると、情報量が多くなりすぎて処理が追いつかなくなるからだ。
故に、ゲーム内では、特定のアイテムを除いて、植物や地面は『不干渉オブジェクト』、すなわち『破壊不可能』に設定されている。
―設定されている、はずだった。
それがどうだ。
今、ケイの手の中には、ちぎられた葉がたしかに存在している。
ぶわり、と草原の風が吹きつけて、手の平から草を吹き飛ばした。
ざあぁ、と草擦れの音を立てて、湿り気のある草と土の匂いが運ばれてくる。
くるくると風に舞う草を、ケイはただ呆然と目で追った。
視線を上にやれば、茜色に染まる岩山。
その岩肌が所々、きらきらと瞬いているように見える。
露出した鉱石の一部が、夕日の光を反射しているのだ。
さらに頭上を仰げば、夕暮れの空に雲がたなびいている。
ゆっくりと形を変えていくそれは、断じてグラフィックの使い回しなどではない。
風によって為される、自然の造形。
かつてないほどに、圧倒的な。
圧倒的すぎる、情報量だった。
―そう、それはまるで、
現実(リアル)……
ありえない、と真っ先に理性は否定する。
もしここが現実であるならば。
この体は、何なのだ。
籠手も革鎧も、腰のサーベルも。
足元に放り出されていた朱塗の弓も、全てが『ケイ』のものだ。
ひょっとすれば、いや、ひょっとしなくとも、顔も『ケイ』のままだろう。
……メニュー画面が出てこないんだ。何度やっても
傍らで、NINJAが震える声でそう言った。
何かを堪えるかのように拳を握りながら、俯いてじっと地面を見ている。
…………
困惑の表情で、ケイはNINJAを見た。
メニュー画面が出てこない、という情報も大切だが。
この黒装束に身を包んだ人物も、ケイの混乱を助長させる一因であった。
……? ど、どうしたんだよ、ケイ
黙りこくるケイに、そして他(・)人(・)を(・)見(・)る(・)か(・)の(・)よ(・)う(・)な(・)よそよそしい視線に、NINJAが気付く。
いや、その―
言い出そうとして、口をつぐむ。
逡巡することしばし。
……何だよ、どうしたんだ?
う、うぅむ
意を決して、ケイは問いかけた。
お前、―誰だ
……は?
なに言ってんだコイツ、と。
呆気にとられたNINJAの口から、間抜けな声が出る。
―おいおい、ショックで頭がイッちまったのか? 勘弁してくれよケイ! いや、気持ちは分かるけどな?