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 そして当然の成り行きとして、クラスメイトからはよくからかわれることにもなった。今振り返れば当時のクラスメイトたちの言葉も行動もたわいもないものだったけれど、あの頃はまだ、僕はそういう出来事を上手くやりすごすことができなかったし、一つひとつの出来事にいちいち深く傷ついていた。そして僕と明里は、ますますお互いを必要とするようになっていった。

 ある時、こんなことがあった。昼休み、トイレに行っていた僕が教室に戻ってくると、明里が黒板の前にひとりで立ちつくしていた。黒板には(今思えば実にありふれた嫌がらせとして)相合い傘に僕と明里の名前が書かれていて、クラスメイトたちは遠巻きにひそひそと囁きあい、立ちつくす明里を眺めている。明里はその嫌がらせをやめて欲しくて、あるいは落書きを消してしまいたくて黒板の前まで出たのだが、きっと恥ずかしさのあまり途中で動けなくなってしまったのだ。その姿を見た僕はかっとなって、無言で教室に入り黒板消しをつかんでがむしゃらに落書きにこすりつけ、自分でもわけの分からないまま明里の手を引いて教室を走り出た。背後にクラスメイトの沸き立つような嬌声が聞こえたけれど、無視して僕たちは走り続けた。自分でも信じられないくらい大胆な行動をしてしまったことと、握った明里の手の柔らかさに目眩がするような高鳴りを覚えながら、僕は初めてこの世界は怖くない、と感じていた。この先の人生でどんなに嫌なことがあろうとも──この先もたくさんあるに決まっている、転校や受験、慣れない土地や慣れない人々──、明里さえいてくれれば僕はそれに耐えることができる。恋愛と呼ぶにはまだ幼すぎる感情だったにせよ、僕はその時にははっきりと明里が好きだったし、明里も同じように思っていることをはっきりと感じていた。きつくつないだ手から、走る足取りから、僕はそれをますます確信することができた。お互いがいれば僕たちはこの先、何も怖くはないと、強く思った。

 そしてその思いは、明里と過ごした三年間、褪せることなくより強固なものとなり続けていった。僕たちは家からはすこし離れた私立の中学校を一緒に受験することを決め、熱心に勉強するようになり、ふたりで過ごす時間はますます増えていった。おそらくは僕たちは精神的にはすこし早熟な子どもで、自分たちがふたりだけの世界に内向していっていることを自覚しつつ、それは来るべき新しい中学生活のための準備期間にすぎないと思い定めてもいた。クラスに馴染むことのできなかった小学校時代を卒業し、新しい中学生活を他の生徒と同時にスタートし、そこで自分たちの世界を大きく広げていくのだ。それに中学生になれば僕たちの間にあるこの淡い感情も、もっと明確な輪郭をとっていくだろうという期待があった。僕たちはいつかお互いを「好きだ」と口に出して言うことができるようになるだろう。周囲との距離も明里との距離も、きっともっと適切なものになっていく。僕たちはこれからもっと力をつけ、もっと自由になるのだ、と。

 今にして思えば、あの頃の僕たちが必死に知識を交換しあっていたのは、お互いに喪失の予感があったからなのかもしれないとも思う。はっきりと惹かれあいながら、ずっと一緒にいたいと願いながら、でもそれが叶わないことだってあるということを、僕たちは──もしかしたら転校の経験を通じることによって──感じ、恐れていたのかもしれない。いつか大切な相手がいなくなってしまった時のために、相手の断片を必死で交換しあっていたのかもしれない。

 結局、明里と僕とは別々の中学に進むことになった。小学六年生の冬の夜、僕は明里からの電話でそれを知らされた。

 明里と電話で話すことはあまりないことだったし、夜遅い時間(といっても九時頃だったろうか)に電話があることはもっと珍しかった。だから「明里ちゃんよ」と母親から電話の子機を渡された時に、すこし嫌な予感がした。

「貴樹くん、ごめんね」と電話口から小さな声で明里が言った。それに続く言葉は信じられないような、僕が最も聞きたくなかったものだった。

 一緒の中学には行けなくなっちゃったの、と明里は言った。父親の仕事の都合で、春休みの間に北関東の小さな町に引っ越すことが決まってしまったのだと。今にも泣き出しそうな震える声。僕にはわけが分からなかった。体がふいに熱くなり、頭の中心がさっと冷たくなる。明里が何を言っているのか、なぜこんなことを僕に言わなければならないのか、よく理解できなかった。

「え……だって、西中はどうすんだ? せっかく受かったのに」と、やっとのことで僕は口に出した。

「栃木の公立に手続きするって……ごめんね」

 受話器からは車の行き交うくぐもった音がして、それは明里が公衆電話にいることを示していた。僕は自分の部屋にいたけれど、電話ボックスの中の冷気が指先から伝わってくるようで、畳にうずくまり膝を抱えた。どう答えていいか分からず、それでもとにかく言葉を探した。

「いや……明里が謝ることないけど……でも……」

「葛飾の叔母さんちから通いたいって言ったんだけど、もっと大きくなってからじゃないと駄目だって……」

 明里の押し殺した嗚咽が聞こえ、もう聞いていたくない、と瞬間的に強く思った。気がついた時には僕は強い口調を明里に投げつけていた。

「……わかったから!」と明里の言葉を遮った瞬間、かすかに彼女の息を呑む音が聞こえた。それでも言葉を止めることができなかった。

「もういいよ」と強く言い、「もういい……」ともう一度繰り返した時には、僕は涙をこらえるのに必死だった。どうして……どうしていつもこんなことになっちゃうんだ。

 十数秒も間が空いて、嗚咽の間に「ごめんね……」という絞り出すような明里の声が聞こえた。僕はうずくまったまま受話器を強く耳に押し当てていた。受話器を耳から離すことも、通話を切ってしまうこともできなかった。受話器越しに、僕の言葉で明里が傷ついているのが手に取るように分かる。でも、どうしようもなかった。僕はそういう時の気持ちの制御の仕方をまだ学んでいなかった。明里との最後の気まずい電話を終えた後も、僕は膝を抱えてうずくまり続けていた。

 それからの数日間を、僕はひどく暗い気持ちで過ごした。僕よりもずっと大きな不安を抱えているはずの明里に対して、優しい言葉をかけることのできなかった自分がひどく恥ずかしかった。そういう気持ちを抱えたまま僕たちは卒業式を迎え、ぎこちない関係のまま明里と別れた。卒業式の後、明里が優しい声で「貴樹くん、これでさよならだね」と声をかけてくれた時も、僕はうつむいたまま何も返すことができなかった。でも仕方がないじゃないか、と僕は思った。今まで明里の存在だけを頼りに僕はやってきたのに。僕は確かにこれから大人になろうとしていたけれど、それは明里がいてくれるからこそできるはずのことだったし、僕は今はまだまだ子どもなのだ。なんだかよく分からない力にこんなふうに何もかも奪われて、平気でいられるはずがないんだと僕は思った。まだ十二歳の明里に選択の余地はなかったにしても、僕たちはこんなふうに離ればなれになるべきではないのだ。ぜったいに。