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 今日会うのはとても久しぶりですよね。なんと十一ヵ月ぶりです。だから私は実は、すこし緊張しています。会ってもお互いに気づかなかったらどうしよう、なんて思います。でもここは東京にくらべればとても小さな駅だから、分からないなんてことはありえないんだけど。でも、学生服を着た貴樹くんもサッカー部に入った貴樹くんも、どんなにがんばって想像してみてもそれは知らない人みたいに思えます。

 ええと、何を書けばいいんだろう。

 うん、そうだ、まずはお礼から。今までちゃんと伝えられなかった気持ちを書きます。

 私が小学校四年生で東京に転校していった時に、貴樹くんがいてくれて本当に良かったと思っています。友達になれて嬉しかったです。貴樹くんがいなければ、私にとって学校はもっとずっとつらい場所になっていたと思います。

 だから私は、貴樹くんと離れて転校なんて、本当にぜんぜんしたくなかったのです。貴樹くんと同じ中学校に行って、一緒に大人になりたかったのです。それは私がずっと願っていたことでした。今はここの中学にもなんとか慣れましたが(だからあまり心配しないでください)、それでも「貴樹くんがいてくれたらどんなに良かっただろう」と思うことが、一日に何度もあるんです。

 そしてもうすぐ、貴樹くんがもっとずっと遠くに引っ越してしまうことも、私はとても悲しいです。今までは東京と栃木に離れてはいても、「でも私にはいざとなれば貴樹くんがいるんだから」ってずっと思っていました。電車に乗っていけばすぐに会えるんだから、と。でも今度は九州のむこうだなんて、ちょっと遠すぎます。

 私はこれからは、ひとりでもちゃんとやっていけるようにしなくてはいけません。そんなことが本当にできるのか、私にはちょっと自信がないんですけれど。でも、そうしなければならないんです。私も貴樹くんも。そうですよね?

 それから、これだけは言っておかなければなりません。私が今日言葉で伝えたいと思っていることですが、でも言えなかった時のために、手紙に書いてしまいます。

 私は貴樹くんのことが好きです。いつ好きになったのかはもう覚えていません。とても自然に、いつのまにか、好きになっていました。初めて会った時から、貴樹くんは強くて優しい男の子でした。私のことを、貴樹くんはいつも守ってくれました。

 貴樹くん、あなたはきっと大丈夫。どんなことがあっても、貴樹くんは絶対に立派で優しい大人になると思います。貴樹くんがこの先どんなに遠くに行ってしまっても、私はずっと絶対に好きです。

 どうかどうか、それを覚えていてください。

*  *  *

 ある夜、彼は夢を見た。

 引っ越しのための段ボールが積まれた世田谷の部屋で、彼は手紙を書いていた。好きな女の子との初めてのデートで渡すつもりだった。それは風で飛ばされてしまうことになる、結局は彼女の手に渡ることのない手紙だった。夢の中の彼はそのことを知っていた。

 それでも僕はこの手紙を書かなければならないと、彼は思う。たとえ誰の目に触れることはなくても。自分にはこの手紙を書くことが必要なのだと、彼には分かっている。

 そして便箋をめくり、最後の一枚に文字を書き込む。

*  *  *

 大人になるということが具体的にはどういうことなのか、僕にはまだよく分かりません。

 でも、いつかずっと先にどこかで偶然に明里に会ったとしても、恥ずかしくないような人間になっていたいと僕は思います。

 そのことを、僕は明里と約束したいです。

 明里のことが、ずっと好きでした。

 どうかどうか元気で。

 さようなら。

8

 四月、東京の街は桜に彩られていた。

 明け方まで仕事をしていたせいで、目が覚めたのは昼近くだった。カーテンを開けると窓の外は日差しに溢れている。春霞にかすんだ高層ビル、その窓の一つひとつが、太陽の光を受けて気持ちよさそうに輝いてる。雑居ビルの合間に、ところどころ満開の桜が見える。東京には本当に桜が多いなと、あらためて思う。

 会社を辞めてから三ヵ月。彼は先週から久しぶりに仕事を始めた。会社勤め時代のつてを頼って、ひとりで設計からプログラミングまでをこなすタイプのこぢんまりした仕事を受けている。この先もフリーのプログラマとしてやっていくのか、自分にそれが可能なのかは分からないが、そろそろ何かを始めたいという気持ちになっていた。久しぶりに向きあうプログラミングは意外なほど面白く感じられ、十本の指でキーボードを打つ感触そのものが楽しかった。

 バターを薄く塗ったトーストを囓り、牛乳をたっぷり入れたカフェオレを飲んで朝食とした。ここ数日まとまった量の仕事をこなしていたから今日は休日にしようと、食器を洗いながら決める。

 薄いジャケットをはおり外に出て、目的もなく街を歩く。時折穏やかな風が髪を揺らす気持ちの良い日で、空気には昼下がりの匂いがした。

 会社を退職して以来、街にはそれぞれの時間帯の匂いがあることを彼は何年かぶりに思い出していた。早朝にはその一日を予感させる早朝だけの匂いがあり、夕方には一日の終わりを優しく包むような夕方だけの匂いがあった。星空には星空の匂いがあり、曇り空には曇り空の匂いがあった。それは人と都市と自然の営みが混然となった匂いだった。ずいぶんいろいろなことを忘れていたんだな、と彼は思う。

 狭い道の入りくむ住宅街をゆっくりと歩き、喉が渇くと自動販売機でコーヒーを買って公園で飲み、学校の校門から走り出て自分を追い越していく小学生たちの背中をなんとなく眺め、歩道橋の上から途切れることのない車列を眺めた。住宅や雑居ビルの向こうには新宿の高層ビル群が見え隠れしていた。その後ろにはまるで青の絵の具をたっぷりの水に溶かしたような淡く澄んだ空があり、いくつかの白い雲が風に流されている。

 踏切を、彼は渡っていた。踏切の脇には大きな桜の樹が立っていて、あたりのアスファルトは落ちた花びらでまっ白に染まっている。