何にせよ、前向きなのはいいことか
あたしも次の大会で自己ベストを出すわ
メグも口惜しそうに、そう言った
あたしには、走ることしかできないからでも、負けないみすずさんみたいに、充実してみせるわ
二人にはみすずの踊りが、そう見えたらしい
後ろから、オレを呼ぶ声がした
そうだここでのオレは、黒森公之助を名乗っている
振り向くと加奈子さんが立っていた
加奈子さんは大きな花束を抱えていた
みすずさんが、これを黒森さんにお願いしますって
加奈子さんは、オレにニコッと微笑む
舞台の方を見るとみすずが、真剣な顔でオレを見ていた
さっきの瑠璃子さんの時と同じだ
賞賛の拍手はあるがみすずに、花を贈ろうとする人間はいない
香月家の娘に公の場で花束を渡す行為はやはり、タヴーなんだろう
その禁忌をみすずは、オレに犯せという
祖父の香月閣下と、名家の人々の前で、自分に花束を渡せと
マナも、オレを見上げる
みすずが望むのならどんなことでも受け入れる
加奈子さんありがとうございます
オレは加奈子さんから、花束を受け取る
このためにあらかじめみすずが自分で用意していたのだろう
花束は全て、真っ赤な薔薇だった
オレは舞台前に向かって、歩き出す
オレの周囲から客席に動揺が走る
タヴーを犯す者が現れたことに対する驚きが
動揺の波は、観客席全体に波の様に拡がっていく
オレは真っ直ぐに、舞台へと向かう
みすずが待っている
みすずオレを
舞台の下からみすずに向かって、花束を捧げる
来て下さるって、信じていましたっ
嬉しそうに花束を受け取った
えーっななな、なんでぇぇぇっ
スットンキョな悲鳴が2階席から発せられた
声の主はみすずの婚約者
司馬貴彦が、大きく口を開けて驚いている
もうこっちを見て下さい旦那様
みすずの声にオレは振り返る
みすずの顔は美しい
みすず大好きだよ
あたしこそ愛しています
みすずが、オレに手を伸ばす
オレは、その手を掴んだ
舞台に上がって、旦那様
オレはみすずに引き上げられる様にして、舞台の上に上った
人々の熱い視線がオレ立ち二人に集中している
旦那様好きっ
みすずはオレの胸に飛び込んできた
今日も遅刻寸前
236.心のヌード
花束を持ったみすずと舞台の上で抱き合う、オレ
満員の劇場はシンとしている
みんな、どう反応したら良いのか判らなくなっているのだ
観客たちの視線は、舞台上のオレたちと2階席正面の香月閣下に集中していた
旦那様、ギュッと抱いていて下さい
みすずには閣下の定めた婚約者がいることは広く公表されている
誰が婚約者かまでは、知らされていないが
だからこの状態について、観客たちが想像するのは、次の2つのケースだ
ケース1・オレがみすずの婚約者でこのパフォーマンスは、オレを披露するための演出である
ケース2・みすずが閣下の意に反し婚約者以外の恋人を作って、既成事実として公表しようとしている
しかしケース1は無い
観客の中で、オレがみすずのその婚約者だとは思う人間はいないだろう
オレは見た目からして、閣下の目に適うような血筋の良い人間では無いし
頭も悪そうだしさっきから、場を乱す様な行為を連発している
この会場の中にいるほとんどの人々上流階級の人たちの独自のルールを、守らない人間だ
こんな危険で馬鹿な男に香月閣下ともあろう人が、大事な孫娘を托すはずがない
もし、この場にみすずの婚約者が居るとすれば閣下が自ら教育している、お気に入りエリート青年団の中にいるはずだ
実際真の婚約者司馬貴彦は、そこにいる
どどど、どうなっちゃっているんだよっ
2階席でスットンキョな声で叫ぶ声
眼鏡をかけた知的な印象の美男子が呆然としている
うんやっぱりエリートの人は、急なアクシデントには弱いんだな
みすずの婚約者に指名されて、さっきまでは20歳前後ですでに人生勝ち組だと思っていたんだろうし
申し訳ないけれど
みすずは、もうオレのものだ
絶対にあんたには渡さない
オレは、さらに力強くみすずを抱き締める
会場は、まだ静まり返ったままだ
香月閣下は無表情で、オレたちを見下ろしている
閣下がどう動くか判らないうちは誰も反応できない
ブーイングどころか、ざわめきもなくみんな息を殺して、閣下に注目している
ミナホ姉さんたちも動かなかった
今ここでオレが黒い森の関係者であることが知れるのはマズイ
メグやマナたちも黙り込んで、舞台を見つめていた
パチパチと拍手の音がする
観客席からでは無い
その音は舞台袖から、聞こえた
スッと舞台にさっき自分の出番を終えたばかりの瑠璃子さんが現れた
にっこりと微笑んで
オレとみすずに、拍手してくれる
続いて美子さんも
拍手の音が二人になった
それから観客席からも
寧さんだった
黒い森の人間であることを世間に知られていない寧さんが満面の笑みで、オレたちに拍手してくれる
その拍手にメグとマナと美智が加わる
雪乃だけは憮然とした表情で、こっちを見ていた
他の観客たちは戸惑っている
瑠璃子さんが意を決して、オレたちに向かって歩いて来てくれた
瑠璃子は、みすずお姉様の勇気に感動しております
みすずに、そう言ってくれた
みすずが、顔を上げる
お前の花瑠璃子さんにも、分けてあげていいか
オレはやりたいことをいや、やるべきことを全てやってしまおうと思った
みすずは、すぐにオレの意図に気付いた
にっこりと笑ってオレに薔薇の花束を差し出してくれる
その中から、オレは花を一輪、抜き取った
瑠璃子さんはい
オレは大観衆の前で、瑠璃子さんにも一輪の薔薇を捧げる
あのわたくしにですか
瑠璃子さんも、一生懸命にお稽古して今日の舞台で踊ったんでしょう
はっきりとオレは言った
小学生の子たちまで頑張って練習して出した成果に対して、お花を貰っているのに瑠璃子さんだけ誰からもお花を貰えないのは、おかしいと思います
オレの言葉にみすずが続く
みすずも一輪の花を抜き取って
あたしからも受け取って頂戴
オレとみすずからの2輪の花を大切そうに受け取ってくれた
わたくしこんな風にお花をいただくのは、生まれて初めてです
ニコッと微笑む、瑠璃子さん
ありがとうございますお姉様お兄様
瑠璃子さんが観客たちに聞こえる声で、オレのことをお兄様と呼んでくれた