舞台の準備は整ったらしい
紺碧流家元・紺碧撫子先生の踊りが始まる
三味線の音が鳴り先生が、顔を上げた瞬間から
身体の中を、ゾクッという衝動が突き抜ける
いや、オレだけじゃない
満席の会場全体が撫子先生の一挙手一投足に、打ち震えた
な、何なんだ、これ
撫子先生は踊りの中で、若い乙女に変化する
どう見ても、10代の少女だ
愛も恋も知らない無邪気な少女
立ち振る舞いが動きがそして、心が
うら若き乙女、そのものになっている
少女はやがて恋を知る
羞じらう仕草
恋しい男性を見つめる瞳
そして、少女も愛する男性に見つめられている
そこから、一気に母になる
小さな子供のいる若い母親
その色気
艶やかさと子供への愛情
夫への愛情
女盛りの肉体と心を見事に踊っていく
そこから照明がスーッと絞り込まれる
その明かりの変化に合わせて老境の女に変わる
孫を愛おしく見つめている老女
孫と遊んでやりたいのだが老女の周りを走り回る孫の動きに、いつしか身体が追いついていかなくなる
腰に手を当てスッと立ち止まる老女
昔のことを回想する
まだ、幼く少女だった頃の自分を
老女が再び、少女に戻る
無邪気な明るい少女時代に帰って、踊る踊る
そして、クライマックス
三味線の音が途絶えた瞬間
少女は老女に戻る
老女のまま、観客に礼をして
撫子先生の踊りは、終わった
余りにも感動的な踊りの余韻に
場内はシンと静まり返っていた
アメリカからの賓客が、まず最初に立ち上がってスタンディング・オベーションする
その声に、他の観客たちもバッとする
盛大な拍手と歓声が劇場内を包み込む
たくさんの子供たちや大人の人も何人も
舞台下に花束を持って現れる
撫子先生はその全ての花束を、にっこり微笑んで受け取っていった
持てなくなった花束は、若いお弟子さんに預けて
撫子先生は、一人一人から直接、花を受け取る
みすずや瑠璃子さんの逆なんだ
撫子先生は、お花を持って来てくれたお客様に均等に接するために
全ての花を受け取る
ありがとう牧恵ちゃん
ありがとう、吉川さん久しぶりね
ありがとう、田野さんお元気でした
毎年、ありがとう川崎さん
必ず にこにこと笑顔で、何かしらの言葉を添える
これが流派の上に立つ者家元の義務なんだろう
花束の贈呈が一段落したところで黒衣が、家元先生にマイクを持って来る
みなさん最後まで御覧下さいまして、ありがとうございます
撫子先生が頭を下げるとまた大きな拍手が起こった
この会はわたくしのお教室の生徒さんたちの発表会です正直、わたくしの年齢になると、子供たちの若さと元気の良さには敵いません
撫子先生は、にっこりと微笑んでそう言った
普段の踊りでしたら、わたくしの様なお婆さんが無理をして若作りして踊っているだけでも、皆様、年寄りが一生懸命に頑張っているよく化けたなとお褒めいただいたりするのですがこの会は、本物の若い子たちが一生懸命頑張って、皆様に日頃の成果をお見せする場ですから、わたくしもいつもの若作りだけでは負けてしまいますですので、毎年、普段とは違った趣向の踊りをご披露させていただいています
それが楽しみで、毎年来ているんだぁ
2階席から、年輩の人の声がする
毎年毎年、ありがとうございます
家元先生の言葉に、観客たちはまた拍手する
一年間という期間は長いようで、あっという間です子供たちは、どんどん上達していきます今日、皆様の前で踊りを披露した子供たちも来年には、さらにお稽古を重ねて、一回りも二回りも大きく進歩した踊り手になってくれると思います
あれ、今日の出演者が全員舞台に上がって、ご挨拶とかしないの
普通、こういう会って、最後はそんな感じで締めるんじゃないのか
それはもう、帰っちゃっている子もいますから
最初の方に出た小学生の子とかは自分の出番が終わったら、そのままご家族が迎えにいらして、ご一家でお食事に行かれたりします
他の人の踊りは一切観ないで
ご自分のお孫さんにしか興味の無い方がいるんです
ああ上流階級のお金持ちだと
そういう人もいるわけだ
もちろん、ほとんどの子は最後まで残っていますしこの後、懇親会を兼ねたパーティもありますから
でも出演者全員が揃わないんじゃ、最後のご挨拶は無理だな
むしろ何で、あそこの家の子供は居ないんだとかそういうのが、バレちゃうし
あの家は礼儀知らずだとか噂になって、家同士のおかしな対立に発展することになるかもしれない
色々と大変なんだな家元先生は
では、また来年子供たちのさらなる成長を、どうかお楽しみになさっていて下さいませ本日は、ありがとうございました
撫子先生が、観客席に深くお辞儀をする
客席からは、万雷の拍手
舞台の緞帳がスーッと下りてくる
家元先生は、緞帳が完全に閉まりきるまでお辞儀したままだった
緞帳が閉まり、観客席の拍手が鎮まりかけたところで顔を起こす
笑顔で周りのスタッフに声を掛ける
お疲れ様でした皆さん
家元先生の廻りに今日の出演者の少女たちが集まって来る
まだ舞台衣装のままの子も着替え終わった子もいた
顔だけ白いメイクのままで着替えの途中なのかガウン姿の子も
お疲れ様でした先生
ありがとうございました先生
ちゃんとこういう子たちもいる
全員が自己中な親の子供というわけでは、決してない
はい、お疲れ様ここは、これからスタッフのお兄さんたちがお片付けをしますからね危ないですから、みなさんはお兄さんたちのお仕事の邪魔にならないように、楽屋の方へ行きましょうね
そう言って子供たちと一緒に楽屋へ向かう
途中で、オレたちに向かって、ニコッと微笑んでくれた
オレたちは、全員揃ってペコリと頭を下げる
本当に良い人だな
あたしたちの先生ですから
幕の下りた舞台の中では黒衣さんたちが、どんどん片付けを始めている
小道具を整理したり袖幕を外したり
背景のホリゾント幕を照らすライトから、カラー・フィルターを抜き取っていったり
ここに居ると邪魔になるな
オレたちも取りあえず人のいない、舞台袖の奥の方へ行く
今日は、お疲れ様でした瑠璃子さん美子さん
みすずが改めて、従妹とそのお付きに挨拶する
お疲れ様ですみすずお姉様
お疲れ様でございますみすず様
二人も、みすずに挨拶を返してくれた
今年の発表会は、素晴らしかったですお姉様と、とっても仲良しになれました