顔が悪いかスタイルが、巨体だとか
あるいは、片目がアイパッチで頬に大きなサンマ傷があるのかもしれない
いえとても、綺麗で可愛らしい方ですわ
ジッちゃんの代わりに、みすずが答えた
となるとまさか
可能性は1つしかない
臭いの
足の薬指と小指の間とかから、異臭がするとか
プッ、何っそれ
寧が呆れて笑い出す
大丈夫だ、そういう心配も無いもし不安なら、お前が風呂に入れて、ゴシゴシ洗ってやれ
ジッちゃんも、笑っている
本当にお前は、場を和ます天才だな
いや、オレは本気で聞いているんだよっ
判った、判ったいいから、とにかく席に着け立ったままじゃ、落ち着いて話ができん
瑠璃子がわざわざ来てくれてオレのために椅子を引いてくれる
そこまでしてもらったら座るしか無い
オレは仕方なく裁判長席に座った
今、お茶を入れますわ
まったく瑠璃子は気が利く
そちらの部屋に、お茶の用意がしてあるわ
ミナホ姉さんが指差したのは校長室の隣の緊急放送室だ
オレが雪乃のレイプを全校放送した
ああ、ミナホ姉さんはオレたちが来る前に
下の部屋から、お茶のセットを運んで来たんだな
お湯もポットに入れて
マナも、席を立つ
うん香月家席と黒い森席
それぞれに、お茶係ができた
さて、鷹倉家の娘が来る前に1つ、余計な話をしておこう
ジッちゃんが、ニヤッと微笑む
お前はさっきテニス部の娘自分とは文化の違う人間と接して、酷く困惑していたな
いや文化の違いって
オレも可奈センパイも日本人だし
そこまでかけ離れているわけでは
確かに、考え方や生き方のルールはオレと全く違っていたけれど
江戸時代が終わって、明治になった頃日本は、西洋文明の科学技術は問題なく導入したが、文化については段階を経なくてはならなかった
それはつまり自分たち日本人と西洋人は、文化が感性が違うのだから、西洋の文芸などを理解することは、日本人には難しいかもしれないという考えがあったんだ
だから、明治期の最初に入って来た西洋の文芸は全て、日本を舞台にした物語に書き換えられた場所も日本、登場人物も日本人という具合に
日本の話に変換した
例えばシェイクスピアのハムレットを最初に日本人が上演したのは川上音二郎の劇団だが何故か明治の華族のお家騒動の話になっていた原作では、中世デンマークのエルノシア城の城壁の上で、ハムレットは父王の亡霊に出会うのだが川上版では、男爵・葉村年丸が、学習院の同窓会の帰りに青山墓地で父の亡霊に出会うストーリーに改編されていたちなみにヒロインのオフィーリアは、おりえさんだ
全然違うじゃないか
その公演は結局、ハムレットのストーリー展開だけをなぞっただけで、セリフや途中の展開は全て日本人が勝手作った
何で、そんなことに
外国人とは、どうせ感性が違うのだから、同じにやっても判らないと思っていたんだそうやって、翻案日本人向きに書き換えないと、伝わらないと
はあそれが明治か
ハムレットなんてまだいい、オセロなんて室鷲郎《オセロ》だからな敵役のイヤーゴなんて伊屋剛蔵だぞどういう当て字だ
ジッちゃんは、怒る
他にもシラノ・ド・ベルジュラックが白野弁十郎とかな
だが明治の終わりになって来ると、翻訳劇はそのまま原作通りのストーリーで、原作通りの役名で日本人でも、外国人を演じるべきだと考える人間が現れた逆を言えばそれまでは、日本人に西洋人を演じることなど、不可能だと思われていたんだ顔付きが違う、言葉が違う、文化が違う感性が違うから
文化と感性
最初に、日本人に西洋人を演じさせたグループの1つに島村抱月という男がいた彼は、イギリスとドイツに留学した経験があったそして、当時、ヨーロッパで流行っていたのはノルウェーのイプセンの作品だった
イギリスドイツノルウェー
彼は現地で観てきたんだよ日本人からすれば西洋人は、みんな同じに見えるが現実には、イギリス人も、ドイツ人も、ノルウェー人も違う言葉が違う住んでいる環境が違うから、文化も違う国民性としての感性も違う
ああ、ヨーロッパの中でも差違がある
例えばイギリス人が、ノルウェーのイプセンの書いた作品を英語に翻訳してイギリス人の俳優で上演するそこににはやはり異文化を理解しないと越えられない壁がある西洋人たちだって、そういう差違を越えて他国の文化を理解しようとしているならば、日本人にだって異文化の理解はできるはずだそういう考えで島村抱月は、次々と外国の作品を翻訳して日本人に外国人を演じさせたそして大正時代の初期には、大きな成功を収めることができたのだ小説などもそうだ最初は、日本の話に置き換えて書き直されていたものが徐々に、元の作品のまま出版されるようになる以前は、主人公の名前がトムやジェームズでは感情移入できないと思われていたものが外国人の主人公の、外国の物語でも広く一般に受け入れられるようになるそういう過程があったんだだからこそ現在の日本人は、外国の文芸を楽しむことができるようになった
同じ様なことが、戦後すぐのマッカーサーの政策でも行われたマッカーサーは、日本人にとにかくアメリカ映画を見せるように指示した
映画どうして
それまでは鬼畜米英で、日本人とアメリカ人とは理解し合えないものだと宣伝されていたんだよ感性が違うと
だが、映画を観ればアメリカ人にも、日本人と通じる情があることが判る親子の情、恋愛感情、正義に対する思い自分たちと同じ様な感性があるのだと判れば、日本人はアメリカ人を受け入れると思ったんだろう
もっとも、このマッカーサーの政策は大きなお世話だった日本人は戦前から、アメリカ映画も観ていたからなアメリカ人にも、日本人と通じる感性があるということは、とっくにみんな知っていたさただ
当時のアメリカ映画は、全部、アメリカが正しくて、アメリカが勝つストーリーだからなそういう意味では、日本人のコントロールには効いたかもしれないみんな、アメリカの物質的な生活に憧れたしな
さて、余計な話はここまでだわたしが言いたいのは文化が違うとしても、人間同士なら通じる感性はあるそれを忘れるな
つまり鷹倉さんのお嬢様は、明治の人間にとっての西洋文化並みにオレには判らない存在なのか
ああ来たみたいだぞ
ジッちゃんがパソコンを示す
オレも、オレの机に置かれたモニターを見る
うちの高校の正門
外は、ほとんど暗い
西の空に濃いオレンジ色の光が残っているだけだ
ああ、大きな車が来た
おそらく香月セキュリティ・サービスの人が門を開ける