……声が聴こえた
……声?
思わず、ケイは眉をひそめる。
『視力強化』の呪印を刻んだ両の瞳ほどではないが、極限までステータスを高めたアバターとして、ケイの耳もかなりの高性能を誇っていた。
しかし、先ほどから、声など聴こえてはいない。
……何だ……何だ、今の……
……落ち着け。なんだか嫌な感じがする
壊れた機械のように、せわしなく視線を彷徨わせるアンドレイ。
その姿に、言い知れぬ不安を覚えたケイは、思わずそう口にして―自分の発言に戸惑った。
“嫌な感じがする―”
何を馬鹿な、と。一笑に付したい気分だった。
確かに DEMONDAL には”第六感(シックスセンス)“という、『悪寒』を発生させるシステムが存在する。だがそれはあくまで、鳥肌が立つような、ゾクゾクとした『感覚』を再現するもの。
断じて、根源的な不安を呼び起こすような―
ヒトの感情に、直接影響を及ぼすようなものでは、ない。
しかし、他でもない今。
ケイは得体の知れない何かが、足元からじりじりと這い上がってくるような―そんな、感覚に襲われていた。
……アンドレイ、俺には何も聴こえない
そんな筈はない! ほら……まただ!
微かに怯えの表情を浮かべたアンドレイが、鋭い声を上げる。
ケイも聴こえるだろ!?
……いや、聴こえないぞ
事実、何も聞こえない。だが、アンドレイはそうではないようだった。
嘘だ! なんでだよッ!!
本当だ、落ち着けっ
なんで聴こえないんだ! ほら、また―
その瞬間。
言葉を続けようとしたアンドレイは、かっと目を見開いて、硬直した。
…………
……アンドレイ?
……誰だッ!!
サーベルを振り上げたアンドレイが、周囲を見回し、叫ぶ。
誰だッ!! 何処にいる?!
アンドレイッ
誰だ?! なんで、なんでッ―
怯えきった顔で、アンドレイは絶叫した。
―なんでオ(・)レ(・)の(・)名(・)前(・)を(・)知(・)っ(・)て(・)い(・)る(・)?!
……は?
何を言っているんだコイツは。と、思わずケイの思考が一瞬停止する。
……。アンドレイ、いい加減に落ち着い―
ぐるんと、アンドレイがこちらに顔を向けた。
その瞬間、ケイの背筋に冷たいものが走る。
ア(・)ン(・)ド(・)レ(・)イ(・)の(・)視(・)線(・)は(・)、ケ(・)イ(・)を(・)素(・)通(・)り(・)し(・)て(・)い(・)た(・)。
明らかに、目の焦点があってない。能面のように表情が抜け落ちた顔は、紙のように白かった。リアルな造形とはいえ、高々ゲームのアバター―にも関わらず、背筋が凍るようなおぞましい何かが、そこにあった。
…………
無言のまま、アンドレイが左手を振り上げる。きらりと光る投げナイフ。
ぶわりと、アンドレイの黒衣が膨れ上がるような錯覚が、
いや、ちょっと待
左腕がブレた。
鋭く刺すような殺気。ケイは慌てて身をかがめた。
ビッ、と空を切り裂いて、ケイの頭を銀色の刃がかすめる。
おいっ、ふざけるなっアンドレイ!!
思わず怒鳴るが、アンドレイは意に介さず、そのままきょどきょどと周囲に視線をやり、
くそっ、何処だ。アイツ、何処に行きやが、あああああ、あ、あ、あ、消え、消え
うわ言のように呟きながら、馬上で寒さに凍えているかのように、己の身を掻き抱く。その体は冬山の遭難者のように、カタカタと細かい震えを起こしていた。
流石に心配がピークに達したケイは、ひらりと鞍から飛び降り、アンドレイに近づこうとした。
が、その瞬間、ぴたりと震えを止めたアンドレイが、再び腰から投げナイフを引き抜く。
来るか、と咄嗟に身構えたが、アンドレイはケイとは明後日の方向を向いて、
そこかッ!
ナイフを投じた。
風切音。
しかし、何もないところへ投げられたナイフは、当然、何者をも捉えない。
乳白色のヴェールに、呑まれて、消える。
普通なら地面に刺さるなり、崖の岩肌に弾かれるなり、何らかの音がするはずだったが、霧の世界は不気味なほどに静かなままだった。
また、また、消えた……
泣きそうな表情で俯いて、アンドレイが小さく呟く。
その表情に憐憫を、そして理解不能な状況に怒りを覚えたケイは、たまらず、腹の底から声を振り絞って、叫んだ。
おいッ、アンドレイッ! しっかりしろ!!
その声に、はっとアンドレイが顔を上げる。
……ケイッ!!
叫び返すアンドレイはしかし、振(・)り(・)返(・)っ(・)た(・)。
―ケイがいる方向とは、真逆に。
ケイ! 何処に行ってたんだ!
心なしか安堵の色が滲む声で、アンドレイがほっと溜息をつく。
全く、ビビらせやがって……
ああそうさ、さっきから変な声がしてたんだ
いや、幻聴じゃねえよ。ホントだって
それよりお前、何処に行ってたんだよ? けっこー怖かったんだぜ?
え? さっきからここにいた? 嘘つけ、絶対いなかっただろ
からからと笑うアンドレイ。
―いや、冗談ではない。
おい……おいっ!! アンドレイ!!!
楽しげに会話するアンドレイに、ケイは全身が総毛立つのを感じた。
お前、誰(・)と話してるんだ!
ふっ、とアンドレイが、こちらを見た。
焦点のあっていない目。
……なあ、今、また声が聴こえなかったか?
彷徨う視線。
なあ、ケイ。…………ケイ?
再び、振り返ったアンドレイが、 あれ? と戸惑いの声を上げる。
おい、今度は何処行ったんだよケイ! 悪ふざけは止めてくれ!
ふざけてんのはお前だ! 俺はここにいる!
……! そっちか!
明後日の方向を向いたアンドレイが、手綱を握り馬の横腹を蹴った。
ヒヒン、と鳴いたアンドレイの馬が、駆け足で走り始める。
ケ―イッ! 待ってくれ―ッ!
違う! それ(・・)は俺じゃないッ! 止まれ、アンドレイ!!
必死で叫ぶ、
アンドレイッッ!!!
少年の後ろ姿が、霧に呑まれた。
蹄の音が遠のいていき―消える。
…………
一人残されたケイは、ただ、呆然と立ちすくんだ。
……。!
数秒、あるいは数十秒。はっと我に返る。
追わなければ、と思った。
正直、気味の悪い、この得体の知れない状況に、ログアウトするなりキャラチェンジするなりしたい気分だったが。
このまま放っておけるほど、アンドレイは付き合いの浅い相手ではなかった。
何かがヤバい、と。ケイは、直感していた。
くそっ、アンドレイの馬鹿野郎
手間かけさせやがって、と毒づきながら、手綱を引いて馬に飛び乗ろうとした。