Выбрать главу

 お姉ちゃんの影響でボディボードを始めたのが高校一年生の時、最初の一日で私はすっかりサーフィンの魅力にとりつかれてしまった。大学でサーフィン部だった姉のサーフィンはちっともファッショナブルではなくバリバリの体育会系だったけれど(最初の三ヵ月はひたすら沖に出るための基礎練習だった。日が暮れるまでパドリング! ドルフィンスルー!)、海というとてつもなく巨大なものに向かっていくという行為を、理由は分からないけれどとても美しいと思った。そしてボディボードにもずいぶん慣れた高二の夏のある晴れた日、私は今度は波に立ちたいと突然に思った。そのためにはショートボードかロングボードに乗る必要があり、ミーハーな私はサーフィンといえばやっぱりショートでしょうということで転向し、そして習い始めの頃こそは何回か偶然に波に立てたこともあったのだけれど、それ以降なぜかぷっつりと立てないままでいる。難しいショートボードは投げ出してボディボードに戻ろうかとも思いつつ、それでも一度決めたことなのだからとぐずぐずと迷い、そんなふうにしているうちに私は高校三年になり、あっという間に夏になってしまった。ショートボードで波に乗れない。これが私の悩みの一つ。そして二つめの悩みに、私はこれからアタックする。

 パン! という気持ちの良い音が、朝の鳥のさえずりに混じって小さく聞こえてくる。ぴんと張られた紙の的まとを矢が貫く音。今は八時十分、私は校舎の陰に緊張して立っている。さっき校舎の端からすこしだけ顔を出して覗いてみたところ、弓道場にはいつも通り彼ひとりしかいなかった。

 彼は毎朝ひとりで弓道の練習をしていて、私が朝からサーフィンの練習をする一因も実は彼にある。彼が朝から何かに熱中しているなら、私も何かに熱中していたい。彼が真剣に弓を引いている姿は、それはそれは素敵なのだ。とはいえ近くでじっと見つめることは恥ずかしくてできないから、今みたいに百メートルくらい離れた場所からしか練習姿は見たことはないけれど。そのうえ盗み見だけれど。

 私はなんとなくスカートをぱたぱたと払い、セーラーの裾を軽くひっぱって整えてから、深呼吸をした。よし! 自然にいくよ、自然に。そして弓道場に向かって足を踏み出す。

「あ、おはよう」

 いつも通り、彼は近づいてくる私を見つけると練習を中断し、声をかけてきてくれた。きゃー、もう、やっぱり優しい。落ち着いた深い声。

 私はどきどきしながら、それでも平静を装ってゆっくりと歩く。私はただ弓道場の脇を通りかかっただけなのよ、というふうに。そして慎重に返事をする。声が裏返ったりしないように。

「おはよう遠野くん。今朝も早いね」

「澄田も。海、行ってきたんだろ?」

「うん」

「がんばるんだね」

「えっ」思いがけず褒められて私はびっくりする。やばい、きっと私いま耳まで赤くなってる。

「そ、そんなにでも……。えへへ、じゃ、またね遠野くん!」嬉しさと恥ずかしさで、慌てて私は駆けだしてしまう。「ああ、またな」という優しい声が背中に聞こえる。

 問題その二。私は彼に片想いをしている。実にもう五年間も。名を遠野貴たか樹きくんという。そして遠野くんと一緒に過ごせる時間は、高校卒業までのあと半年しかない。

 そして問題その三。それは机の上にあるこの紙切れ一枚に集約されている。現在八時三十五分、朝のホームルーム中だ。担任の松野先生の声がぼんやりと聞こえてくる。ええかー、そろそろ決める時期やぞ。ご家族とよう相談して書いてくるように。とかなんとか。その紙切れには「第3回進路希望調査」と書いてある。これに何を書き込めばよいのか、私は途方に暮れる。

 十二時五十分。昼休み中の教室には、いつかどこかで聞いたことのあるクラシックが流れている。なぜかこの曲を聴くと、私はスケートをしているペンギンを思い出してしまう。いったいこの曲は私のアタマの中でなんの思い出と結びついてるんだろう? 曲名はなんだっけと私は考え、思い出すことをすぐに諦めてお母さんの作ってくれたお弁当の卵焼きを食べる。甘くておいしい。味覚を中心にして幸せだなーという気持ちがじんわりと広がってくる。私はユッコとサキちゃんの三人で机を寄せあって昼ご飯を食べていて、ふたりはさっきからずっと進路について話している。

「佐々木さん、東京の大学受けるらしいよ」

「佐々木さんってキョウコのこと?」

「違う違う、一組の」

「ああ、文芸部の佐々木さんね。さすがだなー」

 一組と聞いて、私はちょっと緊張する。遠野くんのクラスだ。私の高校は一学年三クラスで、一組と二組が普通科、その中でも一組は進学を希望する人たちが集まっている。三組は商業科で、卒業後は専門学校に行くか就職する人が多く、島に残る人もいちばん多い。私は三組だ。まだ訊いたことはないけれど、遠野くんはたぶん大学に進学するのだと思う。彼は東京に戻りたいんじゃないかとなんとなく感じる。そんなふうに考えると、卵焼きの味が急に消えてしまったような気がする。

「花苗は?」ふいにユッコに訊かれ、私は言葉に詰まってしまう。

「就職だっけ?」とサキちゃんが続けて訊く。うーん……と言葉を濁してしまう。分からないのだ、自分でも。

「あんたホントなんも考えてないよね」と、呆れたようにサキちゃんが言う。「遠野くんのことだけね」とユッコ。「あいつゼッタイ東京に彼女いるよ」とサキちゃん。私は思わず本気で叫んでしまう。

「そんなぁ!」

 ふふっ、とふたりが笑う。私の秘めたる想いは彼女たちにはバレバレなのだ。

「いいよもう。購買でヨーグルッペ買ってくる」とふくれたように言って、私は席を立つ。冗談めかしてはいるけれど、遠野貴樹東京彼女説は私には結構こたえるのだ。

「え! あんたまた飲むの!? 二つめじゃん」

「なんかノド乾くんだもん」

「さっすがサーフィン少女」

 ふたりの軽口を受け流し、風が吹き込む廊下をひとりで歩きながら、私は壁にいくつも並んだ額縁になんとなく目をやる。発射台から打ち上がる瞬間の、盛大に煙を噴いているロケットの写真だ。〈H2ロケット4号機打ち上げ 平成8年8月17日10時53分〉、〈H2ロケット6号機打ち上げ 平成9年11月28日6時27分〉……。打ち上げが成功するたびに、NASDAの人がやってきて勝手に額縁を置いていくという噂だ。