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 彼は迷った末に、彼に異動を命じた事業部長に相談を持ちかけた。事業部長は長い時間話を聞いてくれたが、結論として言っていることは結局、チームリーダーの立場を立てつつもプロジェクトを上手く終わらせてくれ、ということだった。そんなことは不可能だと、彼は思った。

 それから三ヵ月以上、ひたすらに不毛な仕事が続いた。チームリーダーは彼なりにプロジェクトを成功させたいのだということも理解できたが、だからといって黙って事態を悪化させる作業を続けることは、彼にはできなかった。幾度となくリーダーから怒鳴りつけられながら、チームの中で彼だけが独自に仕事を進めた。事業部長が彼の行為を黙認してくれているらしいことだけが、救いといえば救いだった。しかし彼の作業の成果を上回る混乱を、彼以外のスタッフが日々積み重ねていった。煙草の本数が増え、帰宅してから飲むビールの量が増えた。

 彼はある日耐えかねて、事業部長に自分をチームから外してくれと頼み込んだ。さもなければリーダーを説得して欲しい。それも駄目ならば会社を辞める、と。

 結局、その翌週にチームリーダーは異動となった。替わりに入ってきた新しいリーダーは他プロジェクトも兼任しており、やっかいごとを背負い込まされたことであからさまに彼を冷淡に扱ったが、すくなくとも仕事については合理的な判断を下す人間だった。

 ともかくも、これでやっと出口に向かって歩き始めることができる。仕事はますます忙しくなり職場ではますます孤独になったが、彼は懸命に働いた。もうそうすることしかできなかった。やれることはすべてやったのだ。

 そういう状況の中で、水野理紗と過ごす時間は以前にも増して貴重なものになっていった。

 一週か二週に一度、会社帰りに彼女のマンションのある西国分寺駅に通った。待ち合わせは夜の九時半で、時々は小さな花束を買っていった。会社の近くの花屋は夜八時までしか営業していないので、彼はそういう時は七時頃に会社を抜け出して花を買い、駅のコインロッカーにしまい、急いで会社に戻って八時半まで仕事をする。そういう密やかな行動は楽しかった。そして混んだ中央線に乗り、花束が潰されないように気をつけながら、水野の待つ駅に向かう。

 土曜日の夜は、時々どちらかの部屋に泊まった。彼が水野の部屋に泊まることの方が多かったが、水野が泊まりに来ることもあった。お互いの部屋には二本の歯ブラシが置かれ、彼女の部屋には何組かの彼の下着が置かれ、彼の部屋にはいつのまにか料理器具と調味料が置かれていた。今までは決して読まなかったような種類の雑誌が部屋にすこしずつ増えていくことは、彼の気持ちを温かくした。

 夕食はいつも水野が作ってくれた。料理を待つ間、包丁の音や換気扇が回る音、麺が茹でられる匂いや魚が焼かれる匂いをかぎながら、彼はノートパソコンで仕事の続きをした。そんな時は、彼は実に穏やかな気持ちでキーボードを叩いた。料理の音とキーを叩く音が小さな部屋を優しく満たしていて、それは彼の知るかぎり、最も心安まる空間であり時間であった。

 水野のことで覚えていることはたくさんある。

 たとえば食事。水野はいつもとても美しく食事をした。鰆さわらの身をとても綺麗に骨からほぐしたし、肉を切り分ける指先は淀みなく、パスタはフォークとスプーンを器用に使い見とれてしまうくらい上品に口に運んだ。それから、コーヒーカップを包む桜色の爪先。頬の湿り気、指先の冷たさ、髪の匂い、肌の甘さ、汗ばんだ手のひら、煙草の匂いが移った唇、切なげな吐息。

 線路沿いにある彼女のマンションで、部屋の灯りを消してベッドにもぐり込んでいる時、彼はよく窓の向こうの空を見上げた。冬になると星空が綺麗に見えた。外はたぶん凍えるほど寒く、部屋の空気も吐く息が白くなるほど冷たかったが、裸の肩に乗せた彼女の頭の重みは温かく心地よかった。そういう時、線路を走る中央線のガタン、ガタンという音は、まるでずっと遠くの国から響いてくる知らない言葉のように、彼の耳に響いた。今までとはまったく違う場所に自分がいるような気がした。そしてもしかしたら、僕がずっと来たかった場所はここなのかもしれないと、彼は思う。

 自分が今までどれほど乾いていたのか、どれほど孤独に過ごしていたのかということを、水野との日々で彼は知った。

*  *  *

 だからこそ、水野と別れることになった時、底知れぬ闇を覗き込む時のような不安が、彼を包んだ。

 三年間それなりの想いを賭して、彼らなりに必死に関係を築いてきた。にもかかわらず、結局は彼らの道は途中で別れていた。この先をふたたびひとりきりで歩いていかなければならないと思うと、重い重い疲労のようなものを彼は感じた。

 何があったわけでもなかったのだと、彼は思う。決定的な出来事は何もなかった。しかしそれでも、だからこそ、人の気持ちは決して重ならずに流れてしまう。

 深夜、窓の外の車の音に耳をすませながら、暗闇の中で目を見開いて、彼は必死に思う。ほどけてしまいそうな思考を、なんとか強引にかき集め、ひとかけらでも教訓を得ようとする。

 ──でもまあ仕方がない。結局は、誰とだっていつまでも一緒に居られるわけではないのだ。人はこうやって、喪失に慣れていかなければならないのだ。

 僕は今までだって、そうやってなんとかやってきたのだ。

*  *  *

 彼が会社を辞めたのも、水野との別れに前後する時期だった。

 だからといってその二つの出来事が関係しているかと訊かれても、彼にはよく分からなかった。たぶん関係はないような気がする。仕事でのストレスで水野にあたってしまったことは何度もあったし、その逆もあったが、そういうことはむしろ表層的な出来事だったと思う。もっと言葉では説明できないような──不全感のようなものが、その頃の自分をいつでも薄く覆っていたような気がする。でも、だから?

 よく分からない。

 会社を辞めるまでの最後の二年ほどの記憶は、後から思い返してみるとまるでまどろみの中にいたかのように、ぼんやりとしている。

 いつのまにか季節と季節の区別がひどく曖昧に感じられるようになり、今日の出来事が昨日の出来事のように思え、時によっては、自分が明日やっているだろうことが映像のように眼前に見えたりした。仕事は変わらず忙しかったが、内容はもはやルーチンワークにすぎなかった。プロジェクトを終わらせるための見取り図があり、それに必要な時間はほとんど機械的に、費やす労働時間によって算出できた。速度の変わらない車列の中を、交通標識に従ってひたすらに進んでいくようなものだ。ハンドルもアクセルも、ほとんど何も考えなくても操作することができた。誰と会話する必要もない。