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 そしていつのまにか、プログラミングや新しいテクノロジーやコンピュータそのものが、彼にとっては以前ほどの輝きを持つものではなくなっていた。でもまあそういうものなんだろうな、と彼は思う。少年時代にあれほど輝きに満ちていた星空が、いつのまにか見上げればただそこにあるものになっていたように。

 その一方で、彼に対する会社の評価はますます高まっていった。査定のたびに昇給が行われ、賞与の額は同期の誰よりも上だった。彼の生活はそれほど金のかかるものでもなかったしそもそも遣う時間もなかったから、通帳にはいつのまにか今まで目にしたことのないような額が貯まっていた。

 キーを叩く音だけが静かに響くオフィスの中で椅子に座り、打ち込んだコードがビルドされるのを待つ間、ぬるくなったコーヒーのカップを口につけたまま、不思議なものだな、と彼は思った。買いたいものなんて何もないのに、金だけは貯まっていくのだ。

 そういう話を冗談めかしてすると水野は笑ってくれたが、その後ですこしだけ悲しそうな顔をした。そんな水野の表情を見ていると、心のずっと深い場所を直接きゅっとにぎられたように、胸の奥がかすかに縮んだ。そしてわけもなく悲しくなった。

 それは秋の初めで、網戸からは涼しい風が吹き込んでいて、腰をおろしているフローリングの床がひんやりと心地よかった。彼はネクタイを外した濃いブルーのワイシャツ姿で、彼女は大きなポケットの付いた長いスカートに濃い茶色のセーターを着ていた。セーター越しの優しげな胸のふくらみを見ると、彼はまたすこしだけ悲しくなった。

 会社帰りに水野の部屋に来たのは久しぶりだった。以前に来た時はまだクーラーをつけていたから、と彼は考えてみる。……そうだ、ほとんど二ヵ月ぶりだ。お互いに仕事が忙しくタイミングが合わなかったからだが、絶対に会えない、というほどでもなかったと思う。たぶん以前ならばもっと頻繁に会っていた。お互いに無理をしなくなった。

「ねえ、貴樹くんは小さな頃なんになりたかったの?」と、彼の会社の愚痴をひととおり聞いた後に、水野が尋ねた。彼はすこし考える。

「そういうものは何もなかった気がする」

「なんにも?」

「うん。毎日を生き抜くのに精一杯だったよ」と笑いながら言うと、「私も」と言って水野も笑い、皿に盛られた梨を一つ口に運んだ。しゃくり、という気持ちの良い音がする。

「水野さんも?」

「うん。学校でなりたいものを訊かれた時、いつも困っちゃったわ。だから今の会社に就職が決まった時、けっこうホッとしたの。これで二度と将来の夢なんかを考えなくていいんだって」

 うん、と同意しながら、彼も水野が剥いてくれた梨に手を伸ばす。

 なりたいもの。

 いつだって、自分の場所を見つけるために必死だった。自分はまだ、今でも、自分自身にさえなれていない気がする。何かに追いついていない気がする。〈ほんとうの自分〉とかそういうことではなく、まだ途上にすぎないと彼は思う。でも、どこへ向かっての?

 水野の携帯が鳴って、ちょっとごめんね、と言って彼女は携帯を持って廊下に向かった。彼は横目で見送り、煙草をくわえ、ライターで火をつける。廊下から楽しげな声が小さく聞こえてきて、突然、自分でも驚くくらい、彼は見知らぬ電話の相手に対して激しく嫉妬した。顔も知らない男が水野のセーターの下の白い肌に指を這わす姿が目に浮かび、瞬間、その男と水野を激しく憎んだ。

 それはせいぜい五分程度の電話だったが、「会社の後輩からだったわ」と言って水野が戻ってきた時、自分が理不尽に蔑まれているような気がした。でも彼女が悪いわけではない。あたりまえだ。「うん」と返事をしながら、自分の感情を押しつぶすように彼は煙草を灰皿にこすりつけた。なんなんだこれは、と愕然と彼は思う。

 翌朝、彼らはダイニングのテーブルに座り、久しぶりに一緒に朝食を食べた。

 窓の外に目をやると、空は灰色の雲に覆われている。すこし肌寒い朝だ。こうしてふたりで摂る日曜日の朝食は、彼らにとってとても象徴的で大切な時間だった。休日はまだ手つかずでそこにあり、たっぷりとした時間をどのように過ごしても良いのだ。まるで彼らのその先の人生みたいに。水野の作る朝食はいつでも美味しく、その時間はいつでも確かに幸せだった。そのはずだった。

 ナイフで切り分けたフレンチトーストにスクランブルエッグをのせて口に運ぶ水野を見ながら、ふと、ここで食べる朝食はこれが最後になるのではないかという予感が浮かんだ。理由なんてないし、なんとなく思っただけだ。それを望んでいたわけではないし、来週だってその次だって、彼は彼女と朝食を食べたかった。

 しかし実際には、それがふたりの最後の朝食となった。

*  *  *

 彼が会社に辞表を出そうと決めたのは、プロジェクトの終了まで三ヵ月という見通しがはっきりと立ってからだった。

 一度そう決めてしまうと、もっとずっと以前から自分が退職のことを考えていたのだということに気がついた。今のプロジェクトを終わらせて、その後一ヵ月ほどかけて必要な引き継ぎや整理を行い、できれば来年の二月までには退職したいと、彼はチームリーダーに伝えた。チームリーダーはいくぶん同情した口調で、それなら事業部長に相談して欲しいと言った。

 事業部長は彼から辞職の意を告げられると、本気で引き留めてくれた。待遇に不満があればある程度は対応できるし、何よりもここまできて辞める手はない。今が辛抱のしどころなんだ。今のプロジェクトは辛いかもしれないが、それが終わればお前の評価はもっと上がるし、仕事も面白くなるはずだ、と。

 そうかもしれない。でもこれは僕の人生なんです、と、声には出さずに彼は思う。

 待遇に不満はありません、と彼は答えた。それに今の仕事が辛いわけでもないんですと。それは嘘ではなかった。彼はただ辞めたいだけだった。そう伝えても、事業部長は納得してくれなかった。無理もない、と彼は思う。自分自身に対してさえ上手く説明できていないのだ。

 でもともかくも、いくぶんのごたごたはあったにしても、彼の退職は一月末と決まった。

 秋が深まり、空気が日に日に澄んだ冷たさを増していく中、彼は最後の仕事をひたすらにこなしていった。プロジェクト終了の明確な期限ができたことで彼は以前よりもさらに忙しくなり、休日はもうほとんどなかった。部屋にいる短い時間は、たいてい泥のように深く深く眠った。それでも常に寝不足で体はいつもだるく火照っていて、毎朝の通勤電車では酷い吐き気がした。しかしそれは余計なことを考えなくてすむ生活でもあった。そういう日々に安らぎさえ感じた。