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 辞表を出せば会社での居心地が悪くなることを覚悟していたが、実際にはその逆だった。チームリーダーは不器用ながら感謝の意を示してくれていたし、事業部長は新しい就職先の心配までしてくれた。お前なら俺も自信を持って薦められるから、と事業部長は言った。しばらくはゆっくりしようと思うんですと、彼はそれを丁寧に辞退した。

 関東に冷たい風を送りこむ台風が通り過ぎた後に、彼はスーツを冬物に替えた。ある寒い朝には箪笥から出したばかりでまだかすかにナフタリンの匂いのするコートを着込み、また別の日には水野からもらったマフラーを巻き、彼自身もまた次第に冬を身に纏っていった。誰ともほとんど口をきかず、それを苦痛とも思わなかった。

 水野とはメールで時折──週に一、二回──連絡を取りあっていた。メールが戻ってくるまでにずいぶん間が空くようになっていたが、彼女も忙しいのだろうとなんとなく思う程度だった。それにそれはお互いさまなのだ。気がつけば、一緒に朝食を食べたあの日からもう三ヵ月も、水野とは会っていないのだった。

 そして一日の仕事を終え、中央線の最終電車に乗り込みぐったりと席に座るたびに、彼はいつも深く息を吐いた。とてもとても深く。

 東京行きの深夜の電車はすいていて、いつでもかすかに酒と疲労の匂いがした。耳に馴染んだ電車の走行音を聞きながら、中野の街の向こうから近づいてくる高層ビルの灯を眺めているとふと、空高くから自分を見下ろしているような気持ちになった。地表をゆっくりと這う細い光の線が墓標のような巨大なビルに向かっている景色を、彼ははっきりと思い浮かべることができた。

 強い風が吹き、遙か地表の街の灯をまるで星のように瞬かせる。そして僕はあの細い光の中に含まれていて、この巨大な惑星の表面をゆっくりと移動しているのだ。

 電車が新宿駅に到着しホームに降りる時、彼は自分の座っていた座席を振り返らずにはいられなかった。重い疲労にくるまれたスーツ姿の自分が、まだそこに座ったままなのではないかという気持ちがどうしても拭えなかったからだ。

 今でもまだ東京に慣れることができていないと彼は思う。駅のホームのベンチにも、いくつも列をなす自動改札にも、テナントのたちならぶ地下街の通路にも。

*  *  *

 十二月のある日、二年近く続いたプロジェクトが終了した。

 終わってみると、意外なほど感慨はなかった。昨日までより一日ぶん疲労が濃くなっただけだ。コーヒー一杯だけの休憩を挟んで、彼は退職の準備を始めた。結局その日も、帰りは最終電車だった。

 新宿駅で降りて自動改札を抜け、西口地下のタクシー乗り場にできた行列を見て、そういえば金曜の夜だった、と彼は気づいた。おまけに今日はクリスマスだ。駅構内のくぐもったざわめきに混じってジングルベルがどこからか小さく聞こえてくる。タクシーは諦めて歩いて帰宅することにして、彼は西新宿に向かう地下道を歩き、高層ビル街に出た。

 深夜のこの場所はいつも静かだ。ビルの根本を沿うように歩く。新宿から歩いて帰る時のいつものコースだった。ふいに、コートのポケットで携帯電話が振動した。立ち止まり、一呼吸おいてから、携帯を取り出す。

 水野からだ。

 出ることができなかった。なぜだろう、出たくなかった。ただひたすらに辛かった。しかし何が辛いのかが分からないのだ。どうすることもできず、携帯電話の小さな液晶ディスプレイに表示された〈水野理紗〉という名前を、彼は立ち止まったままじっと見つめていた。携帯電話は何度か振動し、やがて唐突に、こと尽きたように沈黙した。

 胸に急に熱いものが込みあげてきて、彼は上を見上げる。

 まるで空に向かって消失していくように、視界の半分を黒々としたビルの壁面が占めている。壁面にはいくつかの窓の明かりがあり、その遙か先には息づくように赤く明滅している航空障害灯があり、その上には星のない都市の夜空があった。そしてゆっくりと、無数の小さな欠片かけらが空から降りてくるのが見えた。

 ──雪だ。

 せめて一言だけでも、と彼は思う。

 その一言だけが、切実に欲しかった。僕が求めているのはたった一つの言葉だけなのに、なぜ、誰もそれを言ってくれないのだろう。そういう願いがずいぶんと身勝手なものであることも分かっていたが、それを望まずにはいられなかった。久しぶりに目にした雪が、心のずっと深いところにあった扉を開いてしまったかのようだった。そして一度それに気づいてしまうと、今までずっと、自分はそれを求めていたのだということが彼にははっきりと分かるのだった。

 ずっと昔のあの日、あの子が言ってくれた言葉。

 貴樹くん、あなたはきっと大丈夫だよ、と。

5

 篠原明あか里りがその古い手紙を見つけたのは、引っ越しのための荷物を整理している時だった。

 それは押し入れの奥深くにしまわれた段ボールの中にあった。段ボールの蓋を閉じてあるガムテープにはただ「むかしのもの」と書かれているだけで(もちろんそれは何年も前に自分で書いたはずなのだが)、彼女はなんとなく興味を惹かれてその段ボール箱を開けてみた。その中には、小学生から中学生時代にかけての細々としたものが入っていた。卒業文集、修学旅行のしおり、小学生向けの月刊誌が数冊、何を録音したのかもう覚えていないカセットテープ、色褪せた赤いランドセルと、中学の時に使っていた革の鞄。

 そういう懐かしいものたちを一つひとつ手にとって眺めながら、もしかしたらあの手紙を見つけるかもしれない、という予感があった。そして段ボールのいちばん下にクッキーの空き缶を見つけた時に、彼女は思い出した。そうだ、私は中学校の卒業式の夜、あの手紙をこの缶の中にしまったんだ。鞄から出すことができずに長い間持ち歩き続けていた手紙で、卒業を機会に、振り切るようにこの缶にしまったのだ。

 缶の蓋を開けると、中学の時に大切にしていた薄いノートに挟まれて、その手紙はあった。それは彼女が初めて書いたラブレターだった。