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 収まりのつかない気持ちを抱えたまま、それでもやがて中学校の新学期が始まり、僕は慣れない新しい日々に嫌でも向きあわねばならなくなった。明里と通うはずだった中学校にひとりで通い、すこしずつ新しい友人を作り、思い切ってサッカー部に入って運動を始めた。小学生の頃に比べれば忙しい毎日だったが、僕にとってはその方が都合が良かった。ひとりで時間を過ごすことは以前のように心地よくはなく、それどころかはっきりとした苦痛だった。だから僕はなるべく積極的に長い時間を友人と過ごし、夜は宿題を終えるとさっさと布団に入り、朝早く起きて部活の朝練に熱心に通った。

 そして明里もきっと、新しい土地で同じような忙しい日々を送っているはずだった。その生活の中で次第に僕のことを忘れていってくれればいいと願った。僕は最後に明里に寂しい思いをさせてしまったのだ。そして、僕も明里のことを忘れていくべきなのだ。僕も明里も転校という経験を通じて、そういうやりかたを学んできたはずなのだ。

 そして夏の暑さが本格的になる頃、明里からの手紙が届いた。

 アパートの集合ポストの中に薄いピンク色の手紙を見つけ、それが明里からの手紙だと知った時、嬉しさよりもまず戸惑いを感じたのを覚えている。どうして今になって、と僕は思った。この半年間、必死に明里のいない世界に身体を馴染ませてきたのに。手紙なんてもらったら──明里のいない寂しさを、僕は思い出してしまう。

 そうだった。結局のところ、僕は明里のことを忘れようとして、かえって明里のことばかりを考えていた。たくさんの友人ができたけれど、そのたびに僕は明里がどれほど特別であったかを思い知らされるばかりだった。僕は部屋にこもり、明里からのその手紙を何度もなんども読み返した。授業中も教科書に挟んでひそかに眺めた。文面をすべて覚えてしまうくらい、繰り返し。

「遠野貴樹さま」──という言葉で、その手紙は始まっていた。懐かしい、端正な明里の文字だった。

「たいへんご無沙汰しております。お元気ですか? こちらの夏も暑いけれど、東京にくらべればずっと過ごしやすいです。でも今にして思えば、私は東京のあの蒸し暑い夏も好きでした。溶けてしまいそうな熱いアスファルトも、陽炎かげろうのむこうの高層ビルも、デパートや地下鉄の寒いくらいの冷房も」

 妙に大人びた文章の合間あいまには小さなイラストが描き込まれていて(太陽とかセミとかビルとか)、それはそのまま、少女の明里が大人になりつつある姿を僕に想像させた。近況を綴っただけの短い手紙だった。四両編成の電車で公立の中学校まで通っているということ、体を強くするためにバスケットボール部に入ったこと、思い切って髪を切って耳を出してみたこと。それが意外に落ち着かない気持ちにさせること。僕と会えなくて寂しいというようなことは書かれていなかったし、文面からは彼女が新しい生活に順調に馴染んでいるようにも感じられた。でも、明里は間違いなく僕に会いたいと、話したいと、寂しいと思っているのだと、僕は感じた。そうでなければ、手紙なんて書くわけがないのだ。そしてそういう気持ちは、僕もまったく同じだったのだ。

 それ以来、僕と明里はひと月に一度ほどのペースで手紙をやりとりするようになった。明里と手紙のやりとりをすることで、僕は以前よりずっと生きやすくなったように感じた。たとえば退屈な授業を、はっきり退屈だと思うことができるようになった。明里と別れてからはただそういうものだと思っていたハードなサッカーの練習や理不尽な先輩の振る舞いも、辛いものはやはり辛いのだと認識できるようになった。そして不思議なことに、そう思えるようになってからの方が耐えることがずっとたやすくなった。僕たちは手紙に日々の不満や愚痴を書くことはなかったけれど、自分のことを分かってくれる誰かがこの世界にひとりだけいるという感覚は、僕たちを強くした。

 そのようにして中学一年の夏が過ぎ、秋が過ぎて、冬が来た。僕は十三歳になり、この数ヵ月で背が七センチも伸び、体には筋肉がつき、以前のように簡単には風邪をひかなくなった。自分と世界との距離は、以前に比べてずっと適切になってきているように感じられた。明里も十三歳になったはずだ。制服に包まれたクラスメイトの女の子の姿を見ながら、明里の外見はどのように変わったのだろうかと、僕は時々想像した。ある時の明里からの手紙には、小学生の頃のようにまた僕と一緒に桜を見たいと書いてあった。彼女の家の近くに、とても大きな桜の樹があるのだと。「春にはそこでもたぶん、花びらが秒速五センチメートルで地上に降っています」と。

 僕の転校が決まったのは、三学期に入ってからだった。

 引っ越しの時期は春休みの間に、場所は九州の鹿児島、それも九州本島から離れた島になるということだった。羽田空港から飛行機で二時間くらいかかる距離だ。それはもう、この世の果てというのと変わらないと僕は思った。でも僕はその時点ですでにそのような生活の変化に慣れていたから、戸惑いはそれほどでもなかった。問題は明里との距離だ。中学に上がってから僕たちは会っていなかったけれど、考えてみればそれほど遠くに離れてしまっていたわけではなかったのだ。明里の住む北関東の町と東京の僕の住む区は、電車を乗り継いで三時間程度の距離のはずだった。考えてみれば、僕たちは土日に会うことだってできたのだ。でも僕が南端の町に越してしまえば今度こそ、明里と会える可能性はなくなってしまう。

 だから僕は明里への手紙で、引っ越しの前に一度会いたいと書いた。場所と時間の候補を挙げておいた。明里からの返事はすぐに届いた。お互いに三学期の期末試験があったし、僕には引っ越しの準備もあり明里には部活動があったから、お互いの都合がつくのは学期末の授業後の夜となった。時刻表を調べて、僕たちは夜七時に明里の家の近くの駅で待ち合わせることに決めた。その時間ならば僕が放課後の部活動をさぼって授業後すぐに出発すれば間に合うし、二時間ほど明里と話した後に、最終電車で都内の家まで帰ってくることができる。とにかくその日のうちに家に帰ることができるなら、親へのいいわけもなんとでもなる。小田急線と埼京線、それから宇都宮線と両毛線を乗り継いで行く必要があるけれど、普通電車を乗り継ぐだけなので電車賃も往復で三千五百円ほどですむ。それは当時の僕にとっては小さくはない出費だったけれど、明里と会うこと以上に欲しいものは、僕にはなかった。