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 風景からはすっかり建物がすくなくなり、どこまでも広がる田園は完全に雪に染まっていた。ずっと遠くの闇の中に人家の灯りがまばらに瞬いているのが見えた。赤く明滅するランプのついた巨大な鉄塔が、遠方の山の峰まで等間隔に並んでいた。その黒く巨大なシルエットは、まるで雪原に整列した不穏な巨人の兵士のように見えた。ここはもう完全に、僕の知らない世界なのだ。そのような風景を眺めながら、考えるのは明里との待ち合わせ時間のことだった。もし約束の時間に僕が遅れてしまったとしたら、僕にはそれを明里に知らせる手段がなかった。当時は中学生が持つほどには携帯電話は普及していなかったし、僕は明里の引っ越し先の電話番号を知らなかった。窓の外の雪はますます勢いを増していった。

 次の乗り換えとなる小山駅に着くまでの間、本来なら一時間のところを電車はじりじりと遅れながら走った。駅と駅との間の距離は都内の路線からは信じられないくらい遠く離れていて、ひと駅ごとに電車は信じられないくらい長い時間停車した。そのたびに、車内にはいつも同じアナウンスが流れた。「お客さまにお断りとお詫び申し上げます。後続列車遅延のため、この列車は当駅にてしばらくの間停車いたします。お急ぎのところたいへんご迷惑をおかけいたしますが、今しばらくお待ちください……」

 僕は何度もなんども繰り返し時計を見て、まだ七時にならないようにと強く祈り、それでも距離が縮まらないままに時間だけが確実に経っていき、そのたびに何か見えない力で締め付けられるように全身がどくどくと鈍く痛んだ。まるで僕の周囲に目に見えない空気の檻があり、それがだんだん狭まってくるような気分だった。

 待ち合わせに間に合わないのは、もう確実だった。

 とうとう約束の七時になった時、電車はまだ小山駅にさえ着くことができずに、小山駅から二つ手前の野木という駅に停車していた。明里の待つ岩舟駅は、小山駅で乗り換えてからさらに電車で二十分かかる距離なのだ。大宮駅を出てから車中でのこの二時間、どうにもならない焦りと絶望で、僕の気持ちはびりびりと張り詰め続けていた。これほど長く辛い時間を、今までの人生で経験したことがなかった。今の車内が寒いのか暑いのか、もうよく分からなかった。感じるのは車輌に漂う深い夜の匂いと、昼食以降何も食べていないことによる空腹だった。気づけば車内はいつの間にか人もまばらで、立っているのは僕ひとりだけだった。僕は近くの誰も座っていないボックス席にどさりと腰を下ろした。途端に足がジンと鈍く痺れ、体の深いところから全身の皮膚に疲れが湧き出てきた。体中に不自然に力が入っていて、それを上手く抜くことができなかった。僕はコートのポケットから明里への手紙を取り出して、じっと眺めた。約束の時間を過ぎて、きっと明里は今頃不安になり始めている。明里との最後の電話を思い出す。どうしていつもこんなことになっちゃうんだ。

 野木駅にはそれからたっぷり十五分ほども停車して、電車はふたたび動き始めた。

*  *  *

 電車がようやく小山駅に着いたのは、七時四十分を過ぎた頃だった。電車を降りて、乗り換えとなる両毛線のホームまで走った。役に立たなくなったメモは丸めてホームのゴミ箱に捨てた。

 小山駅は建物ばかり大きかったが、人はまばらだった。構内を走り過ぎる時、待合い広場のような場所にストーブを中心に何人かが椅子に座り込んでいるのが見えた。これから家族が車で迎えに来たりするのだろうか。やはり彼らはこの風景に自然に溶け込んでいるように見えた。僕だけが焦燥に駆られている。

 両毛線のホームは、階段を下りて地下通路のような場所をくぐり抜けたその先にあった。地面は飾り気のない剥きだしのコンクリートで、太いコンクリートの四角い柱が等間隔に並び、天井には何本ものパイプが絡み合って伸びていた。柱を挟んだホームの両側は吹き抜けになっていて、オォォォという吹雪の低い唸りが空間を満たしている。青白い蛍光灯の光が、このトンネルのようにぽっかりあいた空間をぼんやりと照らしていた。キオスクのシャッターは固く閉じられている。まるで見当違いの場所に迷い込んでしまったような気持ちになったが、きちんと何人かの乗客がホームで電車を待っていた。小さな立ち食いそば屋と二つ並んだ自動販売機の黄色っぽい光だけはいくぶん暖かそうに見えたが、全体としてはとても冷えびえとした場所だった。

「ただいま両毛線は雪のため、大幅な遅れをもって運転しております。お客さまにはたいへんご迷惑をおかけいたしております。列車到着まで今しばらくお待ちください」という無表情なアナウンスがホームに反響していた。僕はすこしでも寒さを防ぐためにコートのフードを頭にかぶり、風をよけるようにコンクリートの柱にもたれてじっと電車が来るのを待った。コンクリートの足元から鋭い冷気が全身に這い上がってきていた。明里を待たせている焦りと体温を奪い続ける寒さと刺すような空腹とで、僕の身体は硬くこわばっていく。そば屋のカウンターに、ふたりのサラリーマンが立ってそばを食べているのが見えた。そばを食べようかと思い、でも明里も空腹を抱えて僕を待っているのかもしれないと考え、僕だけが食事を摂るわけにはいかないと思い直した。せめて温かい缶コーヒーを飲むことにして、自動販売機の前まで歩いた。コートのポケットから財布を取り出そうとした時に、明里に渡すための手紙がこぼれ落ちた。

 今にして思えば、あの出来事がなかったとしても、それでも手紙を明里に渡すことにしていたかどうかは分からない。どちらにしてもいろいろな結果は変わらなかったんじゃないかとも思う。僕たちの人生は嫌になるくらい膨大な出来事の集積であり、あの手紙はその中でのたった一つの要素に過すぎないからだ。結局のところ、どのような強い想いも長い時間軸の中でゆっくりと変わっていくのだ。手紙を渡せたにせよ、渡せなかったにせよ。

 財布を取り出す時にポケットからこぼれ出た手紙は、その瞬間の強風に吹き飛ばされ、あっという間にホームを抜けて夜の闇に消えた。そのとたん、僕はほとんど泣き出しそうになってしまった。反射的にその場でうつむいて歯を食いしばり、とにかく涙をこらえた。缶コーヒーは買わなかった。