Выбрать главу

 なぜこれが、大人に人気があるのかは、じつはよくわからない。わからないので、それをいっしょうけんめい考えているような、これまたひまな人もたくさんいる。こういう人たちのいうことは、まちがいなしにとってもくだらないので、あまりまじめにきいたりしないほうがいいよ。ひとは、なにかを見ると、ついつい意味を考えちゃうんだ。特にどっかで見たようなものを見かけると、なんか理由があってそれがそこにあったんだろう、とおもってしまう。

 たとえば変な夢を見ると、それがときどきずっと気になることがある。その夢に、なんか意味があるような気がすることがある。夢の中で、満員電車のむこうのほうにお父さんがいて、にこにこしてこっちをじっと見ている。でも、そのお父さんには影がない。満員電車なのに、どうして影がないのがわかるんだろう。でもわかる。そしておとうさんはずっとぼくを見ている。ぼくはそんな夢をみたことがある。すると起きてからも考えてしまうんだ。あのときお父さんは、なぜにこにこしていたんだろう、なぜ影がなかったんだろう、と。でも実は、それはぼくが頭の中でこしらえたお父さんの姿で、ほんとのお父さんじゃない。だから「なぜ」なんて理由があるわけがないんだ。でも気になる。

 「アリス」もそれと同じだ。ときどきみんなが、ふと考えて、そのままわすれてしまうような変なおもいつきが、ここにはいっぱい入っている。それでぼくたちは、それになんか意味があるように思ってしまう。でも、ほんとはそんな意味はないのかもしれない。そんなものを考えても、しょうがないのかもしれない。そしていろいろ考えて「わかった!」と思っても、ほんとにそれが正しいかどうかはわからない。夢と同じで、あなたがそういうものをかってに頭の中で作っちゃっただけかもしれない。そしてルイス・キャロルはもう死んじゃってるし、だからきくわけにもいかないので、それはいつまでたってもわからないままだ。

 ルイス・キャロルも、たぶんわからなかったんだろう。夢をなんとなく見るのと同じで、これもなんとなく書いちゃったんだろうと思う。あるいはときどき、なんだかみょうに調子よくじょうだんをポンポン思いつくことがあるだろう。それと同じで、キャロルも調子がよかっただけなのかもしれない。調子がとってもよかったもんで、このあとルイス・キャロルはこのお話のつづきを書いた。それが『鏡の国のアリス』だ。これは、この『不思議の国のアリス』の3.1415倍くらいへんてこで、不思議で、わけのわからない、でも(いや、だからこそ)おもしろくてすてきなお話なんだ。これはそのうちまたぼくが訳すけど、時間はこれよりずっとかかるだろう― ―いやどうかな、ぼくの調子が出たら、あんがいすぐできるかも。

 そしてそれにつづいて、キャロルは『スナーク狩り』という詩を書いた。これまたわけのわからないじょうだんだらけの、とってもおもしろい詩だ。このときもキャロルは、まだ調子がよかったんだ。

 だけどそのあとでキャロルが書いたのが『シルヴィーとブルーノ』『シルヴィーとブルーノ完結編』というお話だった。ながくて、お説教くさくて、イマイチだ。ところどころ、おもしろい部分もないわけじゃない。でも、この「アリス」みたいなおもしろさはない。キャロルでさえ、自分がなぜこんなおもしろいものが書けたか、わかってなかったんだろう。そして、急に調子が悪くなっちゃったんだろう。それでも、この二つの「アリス」だけで、ルイス・キャロルはたぶんこの先何百年も、わすれられることはないはずだ。

*     *     *     *     *

*     *     *     *

*     *     *     *     *

  このお話は、もう世界中で読まれていて、まあありとあらゆることばにほんやくされているんだ。日本でもずいぶんむかしからほんやくはある。みじかいし、好きな人もたくさんいるのでまあ、うまいの、へたなの、どうしようもないの、といっぱいある。

 ぼくがこれを訳したのは、やっぱり日本で何人目かのアリス訳者になりたかったからだな。いまある訳がそんなに悪いわけじゃない。なかには、アリスをいまの女の子ちっくにしようとしすぎて、がらの悪いスケバン(ふるいね)まがいにしちゃった訳とか、ことばあそびにこだわりすぎて、なんだかとってもわざとらしい、ふしぜんなものにしてしまった訳(柳瀬尚紀の、漢字だらけのおっかないほんやくとかね)もあるけれど、高橋康也の訳とか、矢川澄子の訳とかは、わるくはない。でも、それでもなんだかよどむ。こう、うまく流れないところがある。高橋さんは学者で、矢川さんは詩をかく人だけど、こういう人は自分でいっしょうけんめい考えたりものを書いたりするのがおしごとだ。だから本や紙とばっかりにらめっこをしている。それで、よのなかの人のふつうのしゃべりかたとかは、あんまり知らなかったりする。口にだしたときのひびきと、字に書いて目にみたときの感じとでは、字に書いた方をだいじにしちゃったりする。なーんてことおもって首をかしげてるより、自分で気がすむように訳したほうがはやい。それで訳しちゃった。

 それに、この人たちの訳は、コピーしてお友だちにあげたりしてはいけないんだ。おもしろいな、と思って人にメールで送ってもだめ。この人たちは(ぼくもだけれど)自分が書いたものについて、ちょさくけん、というものを持っている。これははたみたいなもので、「これはわたしがオッケーといわないと人にみせたりあげたりしちゃダメですよ」と書いてあるんだ。だからきみたちがこの人たちの文を勝手に人にあげると、この人たちがそのはたをパタパタとふる。するとそれを見て、おまわりさんがくることになっている。こっそりやればたぶんわからないけれど、でもだからといってやっていいわけではない。

 じつは、はたを持っているのは書いたり訳したりした人だけじゃない。ふつう、本をつくるときには、いろんな人がいろんなおしごとをする。字がまちがっていないかを確かめる人もいる。イラストをどこにいれようか、とか字の大きさをどのくらいにしようか、とか、決める人もいるし、ひょうしをつくる人もいる。一番読みやすくてきれいになるように、デザインする人もいるし、印刷する人もいるし、本屋さんまでそれを運ぶ人もいる。その人たちみんなが小さなはたをもっている。