左腕を出せ
緊張した面持ちで、逆らうことなく腕を差し出すミオの手首に、Olは短剣を走らせた。痛みはなく、冷たい刃の感覚だけがすっと残る。薄く裂かれた手首からぽたぽたと血を垂らすと、Olは左手で印を組んで手首に触れた。途端に、血は止まり傷は跡形もなく消える。
よし。下がっていろ
命じられるままに下がるミオを尻目に、Olは呪文の詠唱を始めた。ミオの垂らした血が赤く輝き、ふっと掻き消える。
次いで、魔法陣の中央から炎が噴出した。炎は魔法陣の縁まで膨れ上がると、まるでそこに壁があるかのように止まり、とぐろを巻く蛇の様に渦巻きながら天井へと燃え上がっていく。
魔法陣の中一杯に炎が燃え広がったかと思った瞬間。
雷鳴の様な炸裂音が轟き、同時に一瞬にして炎が掻き消えた。
我ヲ 呼ビ出シタノハ 汝カ
代わりに、そこには醜悪な悪魔が立っていた。Olの後ろで、ミオがはっと息を飲み込む。悲鳴を上げなかったのは上等といっていい。恐れを見せれば見せるほど、悪魔はそこにつけこむ。
そうだ。対価として魔力と処女の血を払う。我に仕え、その力を貸せ
話ニ ナラン
まるで金属の板を爪で引っかくかのような不愉快な声で、悪魔は答えた。悪魔は全身赤黒く、その肌に体毛はない。筋肉は赤銅の様に輝き、四本の腕を持っていた。その腕は一本一本がOlの腰と同じくらい太く、指の先には鋼も引き裂けそうな鉤爪がついている。
頭は、狼の様に突き出た口に、山羊の様にねじくれた角が生え、松明の火の様な橙の瞳が爛々とOlを見据えていた。
血デハナク 魂ヲ 寄越セ。穢レノ ナイ 娘十人分ノ 魂デナラ 考エテヤロウ
傲然と言い放つ悪魔に、ミオは恐怖に身を震わせた。
しかし、Olは些かもたじろいだ様子もなく答える。
それこそ話にならん。貴様如き下級悪魔(レッサーデーモン)にそこまで支払う気にはなれんな。条件は変わらぬ。呑めぬと言うなら直々に魔界へ送り返してやる
ムウ、と呻いて悪魔は4つの腕を組んだ。レッサーデーモンと言う呼称は彼程度の力を持つ悪魔を人間が呼ぶときの総称だが、その名の響きに反して悪魔としての位はそれなりに高い。
勿論、最上位であるアークデーモンやグレーターデーモンに比べれば劣る事は否めないが、そんなものを使役出来るのは神代に存在した伝説の魔道王くらいのもの。現代の魔術師が召喚できる悪魔の中では、レッサーデーモンはむしろ最高位に近いほどの実力を持っていた。
しかし、そんな彼の前でOlの不敵な態度に、レッサーデーモンはただならぬ物を感じたのだ。
所詮小悪魔か。わからぬのか、666の悪魔を従える、この我の魔力が
Olの身体から、炎の様に琥珀色の魔力が迸る。糸状ではなく、身体全体を覆うように吹き出す魔力は人間の持ちえる量ではない。
666ダト
現実的な数字ではない。普通の魔術師なら、悪魔を10も従えれば干乾びる。しかし、先ほどの魔力を見ればそれも不可能ではないように思えた。何より、666の悪魔を従えていると言うのは嘘ではない。
ある程度以上の実力を持つ悪魔にとって、人間の嘘など見破るのは容易い。勿論、嘘を隠す為の魔術もあるが、今度はその魔術自体の臭いを悪魔の鼻は嗅ぎ付ける。
レッサーデーモンは、目の前の魔術師が嘘をついていないことを確信した。
であれば、強気な態度も納得できる。つまり、彼程度の格の悪魔を呼び出す事など大した苦労とは思っておらず、条件を呑めないなら魔界に送り返す、と言うのもハッタリではない。
これほどの魔術師と巡りあうのは、そうそうあることではない。
分カッタ、一ツデ イイ。乙女ノ魂一ツダ、ソレデ 力ヲ 貸シテヤル
大幅な譲歩だ。要求を減らし、文言も考えてやるから力を貸すに変えた。幾らなんでも元々突きつけられた要求は呑めない。しかし、これなら相手も喜んで受け入れるはずだ。悪魔はそう考えた。
駄目だ。魔力と処女の血、それで我に仕え、力を貸せ。命によって殺した相手の魂くらいなら、くれてやろう
が、Olは殆ど譲る気はなかった。こんな魔術師の敵対者の魂など、どいつも穢れきったものに決まっている。乙女である事さえまずないだろう。
ナラバ、交渉ハ、決裂ダ!
炎が噴出し、魔法陣を満たす。幾ら相手が稀代の魔術師だろうと、そんな薄給で仕えるなどありえない話だ。力を貸すくらいならまだいい。仕えるとなると、命令に拒否権はないし、いつまで経っても働かないといけない。そんな馬鹿げた話はない。
魔法陣は良くできているが、レッサーデーモンがその気になれば数分で破壊できそうだった。どうせ契約も出来ずに殺されるなら、一か八かにかけて襲い掛かったほうがマシだ。
そう覚悟を決め、悪魔が魔法陣を破ろうと力を込めたその時。
おうる、さま。ごはんの、じかん、だよ
新調したばかりの扉をぎぃ、とあけて、幼い少女が部屋に入ってきた。
ナ
燃え上がった炎は一瞬にして立ち消え、ぷすんと音を立て黒い煙になった。悪魔は驚愕に目を見開き、少女を見つめる。
処女の血って、その子の事か
貴様が望むなら、それでもいいが
悪魔が問うと、Olは少し戸惑ったように答えた。
分かった、する、契約する! お嬢ちゃん、名前を教えてくれないか
? わたし、は、マリーむぐ
危うく真名を名乗ろうとした少女の口を、Olが塞ぐ。
マリー、ああ、マリー。悪魔は四本の腕をかき抱くようにして口の中で呟いた。
真名ではないようだったが、そんな事は関係ない。
極上。ああ、極上の乙女だ。こんな人間、今まで見たこともない。
黄金の様に波打つ髪。宝石の様に輝く無垢な瞳。ふっくらとした頬は薔薇の花の蕾の様に赤く、柔らかく暖かそうな身体。おまけに、なにやら強力な魔術の祝福までかかっている。
お、おい、お前口調が変わってるけどいいのか
熟練の魔術師をして、急変した悪魔の態度に若干引きながらOlは尋ねた。
乙女としてはそれほど価値の高くないミオを見せておいて、譲歩を引き出したところでマリーを見せ、一気に契約させる。元々予定していた通りの手だが、ここまで劇的に態度が変わるとは思わなかった。
ああ、あんなもん人間ビビらせる為にやってるだけだ、別にいいだろ。それよりとっとと契約しろよ!
まさかロリコンだったとは。
口に出さず呟き、Olは懐からリルと契約した時と似たような条文を突き出す。悪魔はマリーに釘付けになりながら、よく見もせずに契約に同意した。
おいてめえ、騙しやがったな!?
ローガンと名乗った悪魔はOlの襟首に掴みかからんばかりに詰め寄った。
契約でOlに対する暴力が禁止されていなければそうしていただろう。