愛情の絶対量ならユニスとて負ける気はしないが、Olへの忠愛という点においてはスピナに勝るものはいないというのは、誰しも認めるところである。もし犠牲になるのが自分であるなら、スピナは一片の躊躇いもなくそれを実行するだろう。
だが、そのスピナが、ユニスを止めたのだ。それはもちろんユニスへの友情やアークへの愛もあるのだろうが、最も大きな理由はOlを想うがゆえ。Ol自身が、ユニスが危険を犯すことを決して許さないだろうという確信を、誰よりも強く持っているがゆえであった。
大きく息を吐き、全身から力を抜いてユニスは呟く。
大丈夫よ
その肩をぽんと叩き、リル。
Olは絶対生きてる。あいつがそう簡単に死ぬもんですか。それに、Olが死ねばわたしは自動的に魔界に送還される契約だしね
マリナの権能すら届かぬ先で、その契約がどれほど有効なものか。何の保証にもならないとは知りつつも殊更明るい声を出すリルに、ユニスは頷いた。
ぐ、う
ずるずると音を立てながら、壁面に預けたOlの身体が地面へとずり落ちていく。
身体が熱い。視界が霞む。息が苦しい。とても立っていられない。
(一体、何が起きた?)
マリナと別れ、地上の井戸に出るはずであった。そろそろ階段でも作ったほうがいいかもしれない、などと思いながら、しかし実際に辿り着いたのは、見た覚えもないダンジョンの中であった。その上、謎の不調が体中を覆っている。その症状に覚えがあるような気もしたが、激痛と悪寒によって思考もうまくまとまらない。
突然、壁が彼に迫り、ひんやりとした石造りの床が頬にぶつかった。一瞬の後、Olは壁が迫ってきたのではなく、自分が倒れ伏したのだと気づく。だが気づいてもどうにもならなかった。四肢に力は入らず、視界はますます霞んでいく。
目近に見える床石に、Olはふと、雑な仕事だ、などと呑気な事を思った。Olのダンジョンはもっと細かく、しっかりとした石組みをする。
その粗雑な床石を歩く、軽い足音が伝わった気がした。もはや目は見えず、耳とて聞こえない。Olが感じたのは床石のかすかな振動だ。
──
Olはそれでも顔を上げ、何事か口に出す。
しかし何と言ったのかは自分ですらわからぬまま、彼の意識は闇に沈んだ。
第1話新たなダンジョンで目覚めましょう-2
ここは?
次に目を覚ましたとき、Olは覚えのないダンジョンの一室で寝かされていた。壁も床も天井も、ついでに言えばすえたような酷い匂いも、Olの管理するダンジョンとは全く違うもの。
横たわる彼の背には何かの皮のようなものが敷かれていて、石床の硬さと冷たさをほんの僅かでも和らげようという意思が感じられた。もっとも、その努力はほとんど無意味なものだったが。
シギケヴ、ィヴ、ク?
聞き慣れない言葉と声に目を向けると、部屋の入口扉代わりであろう、粗末な布をめくりあげ、黒い髪の少女が入ってきた。
真っ直ぐな黒髪を肩口まで伸ばした、若い少女だ。年の頃は十六、七といったところだろうか。黒曜石のような黒い瞳が、じっとOlを見つめている。だがOlの視線はその瞳の上方彼女の額に向かった。
そこからは小さな角が一本、生えていたからだ。
お前が、助けてくれたのか?
気絶する前に聞こえた足音。それはちょうど彼女くらいの体重のものだった気がする。おそらくこの粗末な敷き布団に寝かせてくれたのも彼女なのだろう。体調は万全ではないものの、倒れる前に比べれば随分マシにはなっていた。
サリデ、ィヴ、ノイク、サイクセ、ニム、サルアデビ、ム
少女は困ったような表情で、そう答える。聞いたこともない奇妙な言語。音節の区切りがOlの知るどの言語ともまるで違う。遠く海を隔てた土地のヤマト語ですら、もう少し理解可能だった。
Ol
Olは己の胸に手を当て、そう、名前を告げる。
オウル
戸惑う少女にもう一度言うと、彼女はその意を察したのか音を真似して呟いた。
手のひらを差し向けるようにして、問う。
フローロ
少女フローロは、わずかに逡巡した後そう答えた。ひとまず、これで互いの名前はわかったと思っていいだろう。
オグナサルプラマルサツセエイク!
その時、部屋の外から苛立った男の声が聞こえてきた。
セズ!
フローロは弾かれるように返事をし部屋を飛び出す。
Ol。エイテ、ィク、アロクナ、ウツセル
その寸前、ちらりとOlを一瞥して何事か言いおいた。おそらくはここにいろとかそんな意味だろう。
ヌノ、ルツスジャム
オグナサルプラムシラフィヴノイク!ジュツノジルラペルプ!
隣の部屋から聞こえてくる男の声は酷い剣幕で、それに対するフローロの声は控えめでありながらはっきりしていた。これは、仕えるものの声だ、とOlは思った。
フローロが怒鳴っている男の妻なのか、娘なのか、使用人なのかはわからない。しかしいずれにしてもフローロは服従を強いられる立場である事は確かなようだ。
Olは壁に張り付くようにして、隣の部屋を覗き込む。そして、娘という線は消えたな、と思った。
怒鳴っているのは、フローロとは似ても似つかない、太った中年男であった。髪の色も目の色もフローロとは違うし、何よりその額には角が生えていない。
ニギズサヴォペニヴ!オグナサルプラム!
男はフローロを何事か叱責し、腕を振り上げる。かと思えばその手に青く輝く鞭のようなものが出現し、男はそれをフローロに向かって振るった。
やめろ
それがフローロの身体を打つ寸前、Olは男の腕を掴み止める。
オルウイテ、ィクサツセオイク!?
男は驚いたように目を見開き、フローロを睨む。
その表情を見ながら、Olはさて、どうしたものかと思い悩んだ。
思わず割って入ってしまったが、状況はわからないことだらけだ。
フローロには鞭で打たれるに足る理由があったのかもしれないし、なかったのかもしれない。この男はフローロにとってどんな相手なのかもわからなければ、この男にどれほどの後ろ盾があるかも。
あまりそうは見えないが、もしこの男が大人物であった場合、下手に敵対すればOlの身を滅ぼすことになる可能性もある。
──ならば。
オヴァルクスイティク、ノカルブナイヴギレ!
何事か喚く男の言葉が、突然途切れる。彼の肥満した身体が、Olの手を離れ空中に浮かび上がったからだ。
サ、サラフィヴノイク!?オイテ、ィクサツセオイク!?
男は慌てた様子でジタバタと暴れるが、無論そんなことで地面に降りられるはずもない。
見えざる迷宮(ラビュリントス)。Olが作り上げた魔術武装であり、極小のダンジョンでもある魔導具、ダンジョンキューブ。その不可視の外装が、男を包み込んで持ち上げていた。