食事を運ぶ黒アールヴに次に壊してみろ、焼けたスープを素手で飲ませてやると脅されてから、そういった努力は諦めた。
暇である事を除けば、囚人生活はそれなりに快適だった。運ばれてくる料理は質素なものだったが、それなりの量と味があり、メニューも毎日変わる。
朝食が終わると、食器が回収されると共に湯の入った桶と布が渡され、身を清める事も出来た。普段は滅多に湯になど浸からずたまに水を浴びる程度の生活だったが、アランと肌を重ねる時にはやはり汚れも気になる。たっぷりと時間をかけ、彼女は身体の隅々まで磨いた。
排泄物も毎日二度回収され、綺麗な壷と取り替えられる。いずれもアランのいない時間帯に、女のアールヴによって取り替えられるのが地味に嬉しかった。やはり、そういったものを男に見られるのは勘弁願いたい。想いを寄せる相手であれば尚更だ。
食事以外に時間を知るすべもない生活に、いつしかナジャは何年も牢に入れられている気分になった。楽しかったはずのアラン達との冒険の日々は遠く霞み、色彩を失って現実感がない。
そんな中、アランだけが彼女の心に安らぎを与えてくれた。彼女は縋る様に彼に抱かれ、精を求めた。彼の腕に抱かれていると心から安心し、このままの生活がずっと続けばいい、そんな気持ちになった。
ざ。ざざざ。
そんな生活に影を落とすのが、ナジャの視界を揺らすこのチラつきだった。ふとした瞬間に視界がぶれ、異音が耳を突く。アランにはこの症状は出ていないようだった。病気か、それとも何かの呪いか。最初は気のせいかと思う程度だったそれは、次第に頻度を増やし、今では拭いがたい違和感としてナジャの頭にこびりついていた。
ア、アラン
助けを求めるようにアランの頬に手をそえ、顔を近づける。
ざざざざっ。
口付けようとしたその瞬間、再び視界がブレた。ナジャは慌てて顔を上げ、首を振る。
いきそうなのか? 俺もっいくぞ!
胎内に流し込まれる暖かい感触を感じながら、ナジャは今見たものの事を思い返す。
ブレた視界の先で見えた、アランの顔。
それは、全く別の男の顔だった。
深夜。日の光など届かない、時間の流れもロクにわからない地下の中ではあるが、食事の時間から換算して恐らく深夜だろう。ベッドに横たわるナジャの横で、むくりとアランは身を起こした。
ナジャを起こさぬようにそっと牢獄の扉を開け、外に出て行く。
薄く開けた目でそれを確認して、ナジャはぱちりと両目を開いた。いつもの様に愛し合った後、気を失ったフリをしたナジャは、今までアランだと思っていた男が、全くの別人であると確信した。
恐らく、幻術の類でもかけていたのだろう。時折起こるチラつきは、思えばアランと一緒にいる時だけ起こっていた。異常ではなく、正常。魔術が綻ぶ瞬間だったのだ。
ナジャは猫の様にしなやかな動きで監獄の扉に張り付くと、そっと押した。鍵はかかってない。後で黒アールヴが閉めに来るのだろう。ナジャは隠し持っておいたナイフを服の袖から取り出すと、長い髪をぐっと握り締め、根元の方から切り取った。武器にはなりそうもない食器のナイフだが、髪を切る事ぐらいは容易い。
ショートカットになったナジャは、掛け布団を丸めて中に人が入っているかのように偽装すると、その端から髪を覗かせるようにしておいた。これで、遠目にはナジャが寝ているように見えるはずだ。
ナジャはそっと牢を出、足音を忍ばせながら迷宮の廊下を歩いていく。ナジャ達が冒険していた階層は、そこかしこに死骸が転がり腐臭に塗れていたが、この辺りはまるで王宮の廊下の様に清潔感が溢れ、塵一つない。
牢獄にいた頃はあまり気にしていなかったが、壁面も淡く光を放っていて、薄暗くはあったが明かりがなくても先を見通す事ができた。それに、薄暗いのはナジャにとっては都合がいい。
勘に任せて迷宮の中を進んでいると、光の洩れている扉を見つけ、ナジャは忍び寄って中を覗いた。そこには、大きな椅子にくすんだ金色の髪の男が座っていた。眠っているのか、目を閉じ、椅子に座ったまま微動だにしない。
こいつだ、とナジャは内心を怒りに燃やした。幻術の向こうで見えた男の顔は、間違いなく椅子に座っている男のものだった。アイツがアランのフリをして、何度もナジャを抱き、精を胎内に注ぎ込んだのだ。
ナジャの心は嫌悪感で満たされ、今すぐにでも部屋に入っていって殺してやりたい衝動に駆られるが、彼女は鋼の意思でそれを抑えた。今すべき事は、本物のアランを探し出し、助け出す事だ。
ナジャは扉をそっと離れ、探索を再開する。今夜は何故か勘が冴え渡っている。誰にも見つかることなく廊下を進み、ナジャは槍を持ってぼうっと立っているゴブリンを見つけた。
ゴブリンの背には木で出来た粗末な扉があり、ゴブリンの腰には鍵束がぶら下がっている。
あそこだ、とナジャは直感的に思った。風の様にゴブリンに駆け寄ると、その小さな首を掴んで思いっきり横に曲げる。首の骨をおられ、声をあげる間もなくゴブリンはあっという間に絶命した。
その腰から鍵束を剥ぎ取ると、扉につけられている錠前に鍵を突っ込む。一度、二度は失敗したが、三本目で鍵はカチリと音を立てて開いた。
小さな部屋の中で、彼は粗末な椅子に腰掛けぐったりとしていた。その腕を縛っている縄を解き、もう一度呼びかけると彼は辛そうにゆっくりと顔を上げた。
ナジャ?
ああ、アラン!
ナジャは彼をぎゅっと胸に抱きしめた。ナジャの様にいい扱いをされていなかったのか、髪の色は艶やかさを失い、身体もやや痩せてしまっているが、間違いなく彼こそが本物だ。
さあ、逃げよう。一旦逃げて、体勢を立て直すんだ。丸腰で逃げるのは難しいかもしれないが、私とアランなら何とかなる。運が良ければ装備やShal達も見つかるかもしれない
その必要は、ない
意外な言葉に顔を上げると、彼の瞳がナジャを見つめていた。深い茶の瞳に見つめられ、一瞬、全てを忘れナジャはその瞳を見つめ返す。
俺はこの迷宮の主。そして、お前の主だ。身分を隠して冒険者の一行に紛れ込む任。よく頑張ったな、レオナ
優しく髪を撫でる彼の手つきに、ナジャは全てを思い出した。
ああOl様
目の前にいるのは、アランじゃない。Olだ。ずっと恋を抱き、牢獄の中でナジャを抱き続けた顔、そのままの姿が今ナジャの目の前にあった。
美しい髪を、俺の為に犠牲にしてしまったな。しかし、短い髪のお前もまた美しい。後できちんと整えさせよう
ゆっくりとナジャをかき抱くOlの腕の中で、安心したようにナジャは目を閉じた。そのまま、すやすやと寝息を立て始める。