ただ彼の存在する場所以外を、全て埋め尽くすだけだ。
身体をどう動かそうとその形にぴったり合わせて埋まっていく壁は、まるで精巧なサルナークの形をした型を取るかのよう。とうとう彼は指一本動かせないほどに周囲を埋め尽くされてしまった。
鋼の盾は今この場においては、何の役にも立たなかった。あらゆる攻撃が効かなくても、腹は減る。いや、その前に乾き死ぬかあるいは、息が詰まって死ぬ方が早いかも知れない。
出せ!ここから出せ!
いくら叫んでも声は狭い空洞の中で反響するばかりで、それどころか口の中に侵入してきそうな壁を防ぐためにサルナークはぐっと口を引き結んだ。
壁の中にいる。
ただそれだけで。己が破滅してしまったのだということを、サルナークはようやく悟った。
第2話奪われたものを取り戻しましょう-5
フローロは壁に閉じ込められたサルナークが完全に動かなくなったのを確認して、深く息を吐いた。Olの術には壁を操るだけでなく、その中を覗き見るものまである。
その知識はあまりに膨大で広範なものだったが、フローロは迷うことなくその力を振るうことが出来た。なぜかといえば
(とりあえずこれで決着という所か)
フローロの頭の中に、声ではなく直接意味が響く。それは言語を介さない思考そのもの。彼女の内側に取り付いた、Olの思考であった。
(本当に、何者なのですか、あなたは)
(それはこちらの台詞なのだがな)
結晶化したスキルというものは、それを扱うこと自体は自然と出来るものだ。しかし複数の異なるスキルを組み合わせて自在に操るとなれば、それには訓練と慣れが必要だ。
フローロがOlのスキルを
(魔術だ)
魔術を操ってサルナークを追い詰めることが出来たのは、この声の支援があってのことであった。
ああの陛下
残されたサルナークの奴隷たちのうち、一人がおずおずとフローロに問いかけた。
あたしたちは、これからどうしたら?
その問いに、フローロは返答に詰まる。今の彼女は魔王ではない。最下層の奴隷に過ぎないのだ。奴隷たちを導けるような立場にはなかった。
(お前はそれでいいのか?)
迷う彼女の心の中を見透かして、Olは問いかける。その意思は厳しく問い質すようでもありながら、不思議と楽しげに尋ねているようにも思えた。
(私、は)
いい訳がない。もちろん、それでいいはずなど、あるわけがなかった。ましてやフローロを見つめる魔族たちの前で──
奴隷にまで身をやつした臣民たちの前で、それでいいなどと言えるはずがない。
フローロに注目する奴隷たちの表情は様々だ。だがそこには明るいものは何一つなかった。不安、困惑、怒り、憤り。彼女たちの境遇と、自分の立場を考えれば当然のことだ。
皆さん。今まで、苦労をかけました
だがその表情はかつて幸福に彩られ、笑みに満ち溢れていたはずだ。
私は先代魔王、ストーノの娘。フローロ・サナオ・エウニーセ・オーレリアです
そう思うと自然と、フローロの唇は言葉を紡いでいた。
サルナークはこの柱に封印しました。程なくして死ぬでしょう。そうなれば、あなた達は奴隷の身分から解放されます
奴隷たちがざわめく。それは歓迎ではなく、不信のざわめきだ。
私もまた、奴隷です。この身には何も残されてはいない。私一人では何も出来ません
その気持ちは、フローロには痛いほどわかった。彼女自身がそうだったからだ。
なるべく何にも期待しないように。何にも心を動かさないように。そうして生きてきました
彼女と同じ場所に落とされ、それでもなお我を通そうとする男の姿を見て、フローロは思ったのだ。
でも、それはもう、嫌です。魔族と言うだけで虐げられる暮らしは。奴隷となってあらゆる自由を奪われ、惨めに扱われる暮らしは。何にも期待せず、生きたまま死体となってただ人生を送る一生は、もう嫌です
彼らはフローロのことを信じてはくれないだろう。
私を信じてとは言えません
失敗し、奪われ、破滅したかつての王のことなど。
でも、もう一度だけあなた達自身の力を、信じてほしい
──自分のことすら、信じられないのだから。
わたくし達の力
ぽつりと呟いたのは、ナギアだ。
魔族は魔族と呼ばれている私達には、力があったはずです
それに答えるように、フローロは声を張り上げた。
ナギアさん達尾族は、人よりもよく見える瞳と強靭な下半身があります。羽族には空を舞う翼と軽やかな身体が。牙族にはあらゆるものを切り裂く鋭い爪と牙が。それは奴隷として使役されるためのものではないはずです!
奴隷たちの表情が、僅かに変わる。フローロに集まっていた視線は、互いを見やった。
私は信じたい。自分のことをもう一度信じて──自分の道は、自分で選びたい
それはあるいは、破滅への道なのかも知れない。少なくとも彼らは一度、その道を選んで失敗している。
すぐに決めろとは言いません。一日、ゆっくりと考えて決めて下さい
呆然とする奴隷たちを置いて、フローロは踵を返し、その場を立ち去った。
良かったのか?
部屋を出ると、いつの間に外に出たのかOlがそこに待ち構えていた。
今のお前がそう命じれば、奴らはお前に従ったと思うが
奴隷となったものは、己で物事を決めるという事に不慣れだ。だからこそ、彼らはフローロに今後のことを尋ねた。しかし彼女のやったことは、それを突っぱねるようなものであった。
ええ。今の私には彼らを導く資格も、力もありませんから
そう答えるフローロの表情は、しかしさっぱりとしている。
(力ならここにあるだろう)
フローロの頭の中に潜んだOlの意思がそう尋ねる。確かにOlのこのスキルが
魔術があれば、魔族を解放することも出来るかも知れない。サルナークが最上層を夢見たのも無謀とは言えないだろう。
いいえ。これはお返しします。ナギア
ひ、ひゃいっ!?
突然名前を呼ばれ、ナギアは思わず角の陰から返事をしてしまった。彼女の蛇のような下半身は、自分で立てようと思わなければ全く音を立てずに床を移動することが出来る。足音一つなくついてくる尾族の尾行に気づくことが出来るものは少ない。
私に入れたス魔術を、Olに戻して下さい
よよろしいのですか?
訝しげに問うナギアに、フローロは頷く。確かに彼女の目から見れば、これほどの術をOlに返すというのは勿体ないことのように思えるのだろう。だがうっかり頭の中でスキルと呼ぶ度に訂正され続けるのは正直フローロとしても面倒だった。
(面倒とは何だ、面倒とは)
(それに、その気になればあなたは私を乗っ取ってしまえるのでしょう?)