それが、例の歌を遺していったのかえ
そうさ。まあ、かなり昔のことらしいから、本当かどうかは分からねえけどな……
俺は現物を見ないと信じないタイプでね、とアレクセイは肩をすくめた。
……ま、そーいうわけで。お嬢ちゃん、そろそろ寝た方がいいんじゃねえか
すっかり大人しくなってしまったエッダに、苦笑いしながらそう尋ねる。
……おばあちゃん
心細げな表情で、ハイデマリーを見やるエッダ。ちょいちょい、と何かを求めるように、ローブの袖を引っ張っている。
はいはい。一緒に寝ようかね
うん……
ハッハッハ、良い子はおやすみ。ま、霧の化け物は、魔の森から出てこられねえ。お嬢ちゃんには害はないから、安心しな
うん……。お兄ちゃん、おやすみ……
しょんぼりとした表情のまま、ハイデマリーにしがみついて、エッダは荷馬車に用意された寝床へと入っていった。
……さて、暇だ
砂時計の砂は、まだ余っている。一人きりになって、改めて時間を持て余したアレクセイは、とりあえず暇潰しの為に馬車の幌へと目をやった。
ん、あれ? いねえ
が、先ほどまで踊っていたはずの影絵の貴婦人は、どこにも見当たらなくなっていた。
それじゃあエッダ、おやすみ
おやすみ、おばあちゃん……
馬車の中、ハイデマリーと隣り合わせで、エッダは頭から布団をかぶっていた。
…………
隣に感じる、ハイデマリーの温かさが心強い。が、今日聞いた話は、幼いエッダには、少々強烈過ぎた。
もし、布団の外側に、『手形』が来てたらどうしよう―。
そんな、根拠のない恐怖に駆られ、なかなか顔を出すことができない。
しかし、季節は初夏の、それほど寒くはない夜。頭を出さずに布団の中に潜り込んでいると、当然のように、暑くなる。
(……大丈夫だよね、お兄ちゃん、お化けは森の外に出れないって行ってたし……)
暑さには代えられず。どうにか自分を励まし、勇気を奮い立たせたエッダは、ぎゅっと目を瞑ったまま布団から顔を出した。
頬を撫でる、ひんやりと心地の良い夜気。くふぅ、と息を吐き出し、蒸れていない新鮮な空気を楽しむ。
…………
徐々に、眠気が襲ってきた。そうだ、今日は魔法のせいで、少し夜更かししていたんだと。そんなことを考えつつ、うつらうつらしていたエッダであったが―。
ふと、何かの気配を感じ。
半覚醒状態のまま、目を開いた。
視界に飛び込んできたのは―黒。
馬車の幌をびっしりと埋め尽くす、黒く小さな手形―
―きッ!
くわっ、と顔を強張らせたエッダは、そのまま目をぐるりと裏返させて、気絶した。
……んっ。……エッダや。何か言ったかえ
…………
……寝言かえ……
…………
あとには、悪戯を終えてくるくると踊る、影絵の精霊だけが残った。
ちなみに、元々DEMONDALの開発会社は精霊語をラテン語にするつもりだったのですが、ラテン語が難しすぎて心が折れ、急遽もっとシンプルで例外規則のない、人造言語な(=ネイティブがいないのでスタートライン的に平等)エスペラント語をチョイスした、というどうでもいい設定があります。
決して、作者がラテン語やろうとして心折れたわけじゃありません。ほんとですよ! ……ほんとですよ!
24. Yulia
ぼんやりと、薄暗い。
木のポールに支えられた布地を眺めて、自分がふと目を覚ましていることに気付く。
テントの中、ぱちぱちと目を瞬いたケイは、小さく欠伸をしながら上体を起こした。
(……朝か)
入口の布の切れ間から漏れ出る、蒼ざめた冷たい朝の光。おそらく、太陽もまだ顔を出していないような早朝だろう。空気の流れが微かに肌寒く、テントの布越しに鳥たちの鳴き声が聴こえる。
眠気を払うように頭を振って、ふと傍らに目を落とした。テントの支柱を挟んで反対側、アイリーンがマットの上に身を横たえている。上着を丸めた即席の枕に、ほどかれて広がる金髪、その寝顔はすやすやと健やかで、自分の身体を抱えるように毛布にくるまっていた。
体が丸まっているということは、少し、寒いのだろうか。そう思ったケイは、自分の毛布をはぎ取り、そっとアイリーンに掛けてやった。
……んぅ
もぞもぞと身じろぎをして、軽くポジションを変えるアイリーン。起きたかな、と一瞬身構えるケイであったが、アイリーンはそのまま毛布を手繰り寄せ、顔を埋めて幸せそうに眠り続ける。
……ふふ
思わず、笑みがこぼれた。出来ることなら、このままずっと寝顔を眺めていたい気分。しかし、目を覚まさないのをいいことに、乙女の寝顔を覗き見るのも如何なものかと思い直し、鋼の意志で視線を引き剥がした。さもなくば、目のあたりにかかった髪を指で払ってあげたい、白磁のような頬に触れてみたい―と、そんな欲求が際限なく湧いて出てしまう。
枕元に転がしていた剣の鞘を手に取り、そっとテントの外に出た。
ひんやりと、湿り気を含んだ風が頬を撫でる。白んだ空、たなびく巻き雲―その卓越した視力で朝焼けの星空をざっと眺めたケイは、 今日も晴れか と小さく呟いた。
すぅ、と息を吸う。冷たい空気が肺に流れ込む。しばし、呼吸を止めて、体温に馴染ませた呼気を、ゆっくりと吐き出した。
身体の隅々にまで芯が通り、力が満ち満ちていくような感覚。循環、という言葉を思い起こす。
腰のベルトに剣を引っ提げて、軽く体を動かした。起き出している隊商の面々に おはよう、おはよう と声をかけながら、モルラ川の河原へと向かう。
現在、隊商の野営地は下流に位置しているが、相変わらず川の水は驚くほど綺麗だった。水をすくって口をゆすぎ、ついでにぱしゃぱしゃと顔を洗うと、水の冷たさに眠気の残滓が洗い流されていく。現代の地球では有り得ないほどに透き通った水面には、小魚の泳ぐ姿が見て取れた。上流のサティナのような大都市が、下水道を整備して汚物処理を徹底し、汚れた水を川に垂れ流さないよう気を付けている成果だろう。
基本的に、この世界では様々な技術が発達している。とある事情で火薬が存在せず、そのせいで武器こそ剣と弓のレベルに留まっているものの、冶金技術や衛生観念は、中世ヨーロッパのそれとは比較にならない。特に農業、土木建築、薬理などの分野においては、いわゆる『現代知識チート』で何とかなりそうなものは、おおよそ全て実現されている。宗教や政治などに束縛されず、自然に技術が進歩した結果だ。