……これでお手軽な魔法でもあれば、もっと楽になるんだがな
顔を洗ったは良いが、タオルを持ってくるのを忘れたことに気付き、頬から水を滴らせながら渋い顔をするケイ。こんなとき、気軽に風なり火なりを起こして乾燥させることができれば、まさしく『ファンタジー』といった感じなのだが―実際には、高価なエメラルドを一つ犠牲にする羽目になる。
しかしそんな世界、 DEMONDAL というゲームを選んだのは他でもない、ケイ自身だ。自分が好き好んでやった結果である以上、納得するほかない。
尤も、ある程度のプレイののち、異世界に転移することが確定していたならば、もっとライトなゲームをやりこんでいただろうが……
仮に他のゲームで遊んでいたらどうなっていたのか、なぜ自分たちはこの世界にきてしまったのか。疑問は尽きないが、考えてもキリがないし、生産性もない。
シャツで顔を拭ったケイは、気を取り直して腰の剣を抜いた。
ここ数日、ケイは実戦から遠のいている。
ここまで、隊商の護衛とは何だったのかと、そう思わずにはいられないほどのんびりとした旅路だった。勿論、平和なのは歓迎するべきことだ、ゲームと違って本当に命の危険があるのだから。とはいえ、その間に腕が鈍るのも頂けない。平和とは即ち、戦いに備える時間のことを言うのだ―
真っ直ぐに、虚空に剣を突き出す。刃を盾とした、防御の構え。
朝もやの漂う川のほとりで、空気が鋭さを増していく。その黒い瞳は、ありし日に戦った誰かを視ていた。前方、数歩の距離。敵意を持った存在が、焦点を結ぶ。
一瞬の静止ののち、ケイは動いた。
想定するのは、槍だろうか。長物の刺突をいなすように、ケイの剣先が揺れる。ゆるやかに弧を描く刃、巻き込むように、受け流すように。返す刀が踏み込みと共に唸る。振り下ろす動きが足の筋を断ち、ひるがえった一閃が首筋を撫でた。
ひゅん、と余韻を残し、下がること二歩、三歩。剣が突き出され、再び防御の構えが完成する。相対していた心像(イメージ)は霞がかかった朝焼けの中に、ぐらりと崩れて霧散していった。
息をつく間もなく、次。今度の相手は長剣か、上段、中段、下段と多彩な攻撃を受け流すように、滑らかな足捌きで得物を振るう。
無心。限りなくフラットな心境。
型をなぞるように、身体が動く。まとわりついた朝もやが、渦巻き、あるいは斬り裂かれる。くんっ、と剣を跳ね上げる動きは、梃子の原理で相手の武器を弾き飛ばす。すかさず、そこに叩き込まれるコンパクトな刺突。控え目にすら見えるそれは、しかしちょうど身体の中心を捉える高さ。心の臓を抉り取る、致命の一撃だ。そして流れる水が集まるかの如く、再び完成する防御の構え。
目まぐるしく、想定される状況を変えながら、ケイは身体を動かし続けた。十分にも満たない、僅かな時間。長いようで短い、それでいて濃い、そんな凝縮された空間の中で、一心に仮想の敵を斬る。荒々しくも研ぎ澄まされた、不思議な調和がそこにはあった。
しかし―それも、終わりに近づいた頃。
ぴんっ、と弦楽器をつま弾くような、微かな殺気が場を乱す。
咄嗟に、感覚の導くままに、振り向いて横薙ぎに剣を払った。
パシンッ、と音を立てて、飛来した木の枝が両断される。
なんだこれは、と眉をひそめるケイをよそに、パチパチとやる気のない音が響く。
やあ、お見事お見事
顔を上げたケイが見たのは、薄く笑みを浮かべて拍手する、金髪の青年。
―アレクセイだ。
……何の真似だ
剣を鞘に収めながら、憮然とした表情でケイは問う。急に物を投げつけられて、不快に思わない人間がいようか。
悪い悪い。あんたの剣が、あんまりにも綺麗だったから……突っついてみたくなっちまったのさ。俺はトランプのタワーがあったら、つい崩してしまうタイプでね
悪びれる風もなく、おどけた様子で肩をすくめるアレクセイ。しかしケイが何か反応を示す前に、すかさず言葉を続ける。
それにしても、あんたの剣はお飾りじゃなかったんだな。よほどの使い手に師事してたんだろう、見事な剣技だったよ。羨ましいぜ
……そいつはどうも
合理的だし、俺にも参考になる部分があった……けど、おいそれと他人に見せつけるような代物でもないなぁ
お前が勝手に見たんだろうが
それもそうか。ま、気を付けなってこった。世の中には、俺より悪い奴がたーくさんいるからな、何をどう盗まれるか分かったもんじゃないぜ……?
そう言う笑顔は、どこか挑発的だ。心の内に不快感が募る。
……御忠告、痛みいる。それで? 話が終わりなら、失礼させてもらうが
つれないねえ
あくまで一線を引いたケイの態度に、へらへらと笑うアレクセイであったが、その目は真剣な光を帯びていた。
……ひとつ、聞きたいことがある
アレクセイが笑みを引っ込め、ぴん、と指を一本立てる。
はっきりと言うが、俺はアイリーンに惚れている。そこで知りたいのは、彼女とあんたの関係だ。単刀直入に聞かせてもらうが、アイリーンは、あんたの女なのか
その、あまりに直球すぎる物言いに、思わずケイは言葉を詰まらせた。
……なかなか、ダイレクトな質問だな
まあな。だが俺も、こう見えて結構本気なわけよ。もし彼女があんたの女なら、こっちにもそれなりの”礼儀”と”作法”ってもんがある
かつてないほどに、真摯な態度でアレクセイは言う。その真っ直ぐな視線はケイから毒気を抜き、逆にある種の誠実さをもたらした。困り顔で目を泳がせたケイは、
アイリーンは、俺の……、親しい女友達(ガールフレンド)だ。だが、恋愛関係にあるかと問われると、……難しいな
なんつーか、俺の所見なんだが。あんたら、『恋人同士』って感じはしないんだよなぁ。あんたらの関係はむしろ……、そう、ちょうど『お姫さま』と、『それを守る騎士』って間柄に見える
我ながら言い得て妙だ、とひとり何度も頷くアレクセイ。対するケイは、苦虫を潰したような顔をしていた。
……あれ。もしかして、本当にお姫様と騎士だったりする?
はっ、まさか。俺が騎士階級の人間に見えるか?
見かけで判断できるほど、人を見る目に自信はないんでね。まーそもそも、騎士サマなんざ数えるほどしか会ったことないし、お姫様に至っては殆ど見かけたことすらない。比較なんざしようがないのさ……でも、あんたら二人とも、なかなかにミステリアスだからね。だからこそ分からねえ
へらへらと笑顔を取り戻したアレクセイは、今度は何か探るような視線を向けてくる。
アイリーンが言ってた―『故郷が懐かしい』ってな
その言葉に、ケイは息を呑む。アレクセイは観察するような目を外さないまま、