それで俺は、『なら、一度帰ればいい』って言ってやったのさ。そしたら、『もう、帰れないかもしれない』って、彼女、悲しそうにしてたぜ。アイリーンは、故郷について多くを語らないが、少なくとも俺の知る部族の出ではなさそうだ。……あんたら二人とも、随分と遠くから来たみたいだな
アレクセイの口調からは、カマをかけるような、あわよくば情報を聞き出そうという思惑が端々に感じられる。が、ケイはそれよりも前に、軽いショックを受けていた。
(アイリーンは、そんなことを話していたのか……)
故郷のことなど―アイリーンのリアルに関わる情報など、ケイは殆ど知らない。ケイが知っているのは僅かに二つ、アイリーンがロシア人で、シベリアに暮らしていた、ということぐらいのものだ。
(『故郷が懐かしい』だなんて……そんな様子、全然見せてくれなかったし……帰りたいだなんて、一言も―)
―聞いていない。
ま、まあ、話せない事情があるんなら、いいんだけどな
ケイの、思いのほか深刻な雰囲気の沈黙を、どう受け取ったのかは分からないが、アレクセイは少々慌てた様子だ。
いや……別に……
そういうわけで、アイリーンがあんたの女じゃないってんなら、俺は好きにやらせてもらうぜ
曖昧に頷くケイをよそに、手をひらひらとさせながら、アレクセイは逃げるようにその場を去っていった。
沈黙したケイはひとり、河原の倒木に腰を下ろす。
水面を眺めながら、ぼんやりと考えを巡らせた。この、胸の内の、寂しさのようなもの。
(……詰まるところ、アイリーンも、一人の人間だってことだ)
彼女も彼女なりに考え、彼女なりに行動する。ケイのように、元の世界に帰ると、あと何年生きれるか分からない、という差し迫った事情でもない限り、郷愁の念に駆られてしまうのも当然というものだろう。
ケイは、元の世界に未練がない。両親に二度と会えないのは、残念と言えないでもないが、ここ数年はリアルで顔を合わせてはいないし、数日に一度メールでやり取りをする程度の仲だった。また、幼い頃より病室に閉じ込められていたことも相まって、故郷や文化に対する思い入れも薄い。今は元いた世界を失った悲しみよりも、新たな肉体を手に入れられた歓びの方が、大きいのだ。
その他の友人たちと連絡を取れなくなったのも、それはそれで残念だったが― ここ最近で一番仲の良かった、アイリーンが一緒にいるしな という考えに至り、ケイはそこでハッとさせられた。
アイリーンの存在が、自分の中で、大きな心の支えになっている。
その事実に、今さら気付かされたからだ。
(……もし、この世界に来たときに、アイリーンが一緒に居なかったら)
自分は、どうなっていただろうか。ケイは想像してみる。
一応、それなりに、生きていけたであろうとは思う。タアフ村のマンデルではないが、弓の腕さえあれば、傭兵なり狩人なりで生活の糧を得ることはできる。
だが、果たしてそれは、楽しい人生だろうか。
今の自分のように、この世界を楽しもうと、前向きになれただろうか。
(……いや、きっと、なれなかった)
独りなら、不安に呑み込まれていた。なぜ自分がここに居るのか、何をどうやっていけばいいのか―今でも、将来に対する懸念材料は尽きない。それを踏まえたうえで、ケイが前向きでいられるのは、同じ境遇のアイリーンという存在に、自分の悩みや不安を吐露できていたからだ。彼女の前向きさやユーモアのセンスに、どれだけ救われてきたか分からない。
それがなければ、今でも暗い夜には、独りで震えていたに違いない。
(だが……俺は、どうなんだろう)
翻って、自分の立場を考える。
アイリーンにとって、この『乃川圭一』という人間は、どういった存在なのか……。
そのことに思いを馳せると、ケイはまるで、自分の足元が崩れ落ちていくような感覚に襲われる。
サティナで、乗せてもらう船が見つからず、宿屋でくだを巻いていたとき―二人で今後のことを話して以来、アイリーンは、不安を漏らさなかった。
彼女はいつも明るく振舞っており、そしてケイは、そのことに微塵も疑問を抱いていなかった。しかし、よくよく考えてみれば、それは不自然だ。
(アイリーンに、不安がないわけないじゃないか……)
何をどうすればいいのか分からない、とアイリーンは言っていた。自分がどうしたいのか分からない、とも。
しかし―それだけの筈がない。家族はどうしているのか。元いた世界とこちらの世界に時間のズレはあるのか。元の世界の肉体はどうなっているのか。そもそも帰れるのか、帰れないのか。
そういった不安を前に、途方に暮れた状態のことを、 どうすればいいのか分からない と、彼女は表現していただけではないのか。
話しさえしてくれれば、いつでも相談には応じるのに―とは思わないでもないが、ケイはそこで、ある恐るべき仮説に辿り着いてしまう。
あるいは自分は、乃川圭一という男は。
もはやアイリーンにとって、悩みを打ち明けるに値しない存在なのではないかと―。
思い返すは、サティナの街での一件だ。リリーが誘拐され、その救出の是非を巡って、アイリーンと対立した夕べのこと。
勿論、ケイもリリーを助けたくなかったわけではないが、怪我や死のリスクを鑑みて、殴り込みには消極的だった。結果的にアイリーンが先行し、見事リリーを救い出したわけだが、―今となっては、あの時の自分が、みみっちく感じられて仕方がない。
結果論であるということは分かっている。また、リスクを恐れて慎重に立ち回ることが、間違いだと思っているわけでもない。
しかし―あの時、『見捨てる』という選択肢を、アイリーンは『ひとでなし』のすることであると断じた―
失望されたのか、と。
ケイは、恐れる。自分には相談せず、アレクセイには話をしていた、というのは、そういうことではないのか。実は、アイリーンは明るく見せかけているだけで、あの笑顔の下で自分を軽蔑しているのではないかと。
まさかとは思うが、そう考えると、背筋に震えが走るようだった。
締め付けられる心が、彼女には、彼女だけには嫌われたくないと、叫ぶ。
『……どうすればいい』
呟く日本語(ことば)は、誰にも届かず。ただ、陰鬱な溜息だけがこぼれる。
昨夜、精霊語(エスペラント)でアレクセイに意趣返しのような真似をしたが、こうしてみるとただ虚しいだけだ。アレクセイと、自分とを比べて、やはりネイティブには敵わないのか、と。そう思いたいような、思いたくないような、複雑な心境だった。
『俺は、どうしたいのか……』