おそらくこの声は、隊商に参加していた若者のものだろう。他にも複数人の気配が感じられる。そういえばアレクセイは、他の若い見習い連中とも仲良さそうにしていたな、と思い当たる。
あー、水の精霊のな。いや、いいよ、俺は遠慮しておくぜ
お、そうか?
ここで、見習いが声をひそめる気配、
……“お姫様”、か?
ああ、そうさ
微かに笑いを含んだアレクセイの声は、いつもの薄笑いが目に浮かぶようだ。
実は俺も、神殿に行こうと思っててね。今日は天気も良いし、絶好のデート日和だろう? 今度こそ距離を縮めて見せるぜ
自信満々なアレクセイの言葉に、おお、と感心したような声を上げる見習い達。
けど、いいのか? あのケイとかいう男―
なぁに、構やしねぇよ
また他の若者がおずおずと不安げに尋ねるが、アレクセイは鼻で笑い飛ばした。
本人が『自分の女じゃない』って言ってたんだ。なら遠慮することはねえさ
そうか、ならいいだろうが……
っつーことはアレクセイ、もう姫様と約束は取り付けたのか?
うんにゃ
カコン、とテーブルの上にジョッキを置く音。
朝からずっとここで張ってるんだがねぇ、お姫様はぐっすり眠られているようで……いつまで経っても起きやしねえ
朝からって……もう四時間も待ってんのか?
六時の鐘の前から待ってるから、もう五時間は過ぎたな……酒が進んでいけねえや
お、おう……
心なしかその声に、同情の色が滲む見習い達。
流石の俺も、待ちくたびれてきた。そうだ、お前らも座れよ。退屈しのぎに付き合ってくれんなら、酒の一杯でもおごるぜ
おっマジかよ。それなら遠慮なく
アレクセイの申し出に、ガタゴトと椅子を引く音が連続して響く。
よーし、そんじゃあどんどん頼め
自分は、とりあえずエール
葡萄酒で
ぼくは蒸留酒ストレートで~
オイオイ高いのはナシだぜ!
昼前、閑散としていた酒場が、にわかに騒がしくなる。
…………
気が付けばケイは、逃げ出すように、勝手口から外に出ていた。
歩く。
ずんずんと突き進むように。
当てがあるわけではない。
ただ、衝動に身を任せて、猥雑な裏通りを行く。
その表情は、煮え切らない。
悔しさと、苛立ちと、―ある種の怒りが、混じり合っているような。
(……アレクセイと比べて、俺のこの情けなさは何だ)
そんな気持ちが、胸の内で煮え滾る。
なぜ、自分はこうも肩を縮めるような生き方をしているのか。
(……そもそも俺は、こんな無駄に禁欲的な人間だったか)
―いや。
少なくとも今までは、一つのことをいつまでも抱え込むような真似はしなかった。
勿論、ゲーム時代と今とでは事情が異なるし、考えなければならないことは多い。
しかし、それに囚われたまま塞ぎ込んでしまうのは、また何か違うような気がする。
(あの、アレクセイの潔さを見ろ)
折角、この世界に来て新しく肉体を得たというのに。
もっと今の生を楽しまなくてどうする―。
……はぁ
―とは、思うものの。ケイは小さく溜息をついた。開き直って行動を起こそうにも、現状、アイリーンとは断交状態にあることを思い出したのだ。
(まず何よりも先に、アイリーンの機嫌をどうにかしないと……)
何をどうすれば良いものか。仮に、現時点で嫌われてしまっているならば、ここから挽回するのは難しそうだ。そう考えて、思わず頭を抱えたくなる。
(……しかし、なんでアイリーンはあんなに怒ったんだ)
ここにおいてケイは、根本的な疑問に思い当たった。
今までは『アイリーンが怒ったらしい』という、事象そのものにしか気を回していなかったが、そもそも、なぜあんなにも不機嫌になってしまったのか。
心当たりといえば、やはりあの大道芸人の一座しかないだろう。正確には、踊り子の扇情的な裸身に見惚れ、鼻の下を伸ばしてしまったこと。
(だが、それで不機嫌になるということは―)
―それは俗に言う、嫉妬(ヤキモチ)という奴ではないか?
であるならば、なぜ嫉妬なんか―というのは、流石にケイでも分かる。そんじょそこらの有象無象の輩に、嫉妬の感情など抱きようがない。ある程度の『興味』の対象でなければ、引き起こされない感情。
つまり―。
(……眼中にないワケじゃない、ってこと、か)
希望的観測、という言葉が真っ先に思い浮かびはしたが。
そう考えれば、まだ―希望はある。
視界が開けた。
歩いているうちに、裏町を抜けていたらしい。
目の前に広がるのは、湖畔の景色。青く澄んだシュナペイア湖。
それほど大きくはない湖だ。帆を広げた荷船が、何隻も行き交っている。そしてその真ん中には、ぷかりと浮かぶような小島。
歩けば端から端まで、数分とかからないような小ささだ。だが、生い茂る木々の間に、白い石材で造られた建物が見える。
(そういえば……神殿だとか何だとか、言ってたな)
荷船に混じって、満杯に人を乗せた大型のボートも散見された。櫂をこぐ船頭に、ローブを羽織った旅人風の乗員たち。杖を持つ者、祈るように手を組む者、湖の水を自らに振りかける者―巡礼者、という言葉を連想した。
あれが、水の精霊を祭った神殿だ。鐘楼の鐘を三回鳴らせば、願い事が叶うって言い伝えもあってな、各地から水の精霊を信仰する連中がああやって巡礼に訪れる
背後から、唐突に。
驚いて振り返れば、そこには赤ら顔で よっ と手を上げる、ダグマルの姿があった。
なんだ、あんたか
なんだとは御挨拶だな、他に言い様はねえのかよ
何がおかしいのか、けらけらと笑うダグマル。微かに漂う酒気に、ケイは顔をしかめた。
また呑んでんのか
おうよ。好きなだけ寝て美味いもん食って、酒飲んで最後は女! これぞ傭兵の休日よ、ユーリア最高!
ヒューゥ、と歓声を上げながら、強引に肩を組んでくる。完全に酔っ払い親父の言動だ、通行人の目が痛い。
ええい、やめろ暑苦しい!
なんだよ~ノリ悪いなぁ~
ケイが無理やりその手を引っ剥がすと、拗ねたように口を尖らせるダグマル。いい歳した男にそんな真似をされても気色が悪いだけなのだが、幸いなことに、ダグマルはすぐにからかうようなニヤけ面に戻った。
で、何やってんだ? こんなトコで独りでよ
独りで、という部分が強調されて聴こえたのは、気のせいではないだろう。 うぅむ と唸り声を上げたケイは、腕を組んで湖の方を向く。
ん……何かあったのか
怒るでもなく不機嫌になるでもなく、あくまで静かな様子のケイに、ダグマルはふざけた笑みを引っ込める。引き結んだような表情の裏側に、何か変化を感じ取ったのか。