―いや。
ゲーム以外のことを、考えないようにしていたというべきか。
……そうか
ここに至って、ケイは気付いた。
二週間ほど前までの自分が、願っていたこと。
“生きたい”
“一秒でもいいから、長生きしたい”
切実な、真摯な、それでいて、嘆きの声を振り絞るような。そんな想い。
勿論これは、長寿を願うものではない。
消えかかっている命の灯を、少しでも長く、一秒でも長く、ただただ維持したいという、前向きでありながらも諦めを伴った仄かな夢―。
しかし今。
ケイは、ここにいる。
これ以上ないほど健全な肉体を持って、ここに居る。
(そうか、俺の願いは、もう―)
―叶っていたのか。
今更のように、ケイは笑う。
しかし、だからといって、これ以上は何も願わないのか、というと、それは違う。
(転換期にいるんだ、俺は)
過去の自分を振り返って、そう思った。
今まではずっと、『生きること』そのものに執着していた。
だが、健康な肉体を得て、『普通に生きること』が許された以上、別の何かを探さなければならない。
いや、―その何かを、探し出したい。
ただ漫然と『生きる』のではなく、『どう生きるか』を模索する―模索できる、その時が訪れたのだ。
(しかし困ったな。今急にそんなもの、思いつかないぞ……)
せめて、来る前に考えておくんだった……とは思うものの、アイリーンを誘う前までは、それどころでなかったことも思い出す。
アイリーン。
ふと、顔を上げた。
……ん? なに?
見つめられて、小首を傾げる、美しいひとりの少女―。
(……そうか)
ケイの口元がほころんだ。
難しいことを考えずとも、今は、ひとつ願いがあるじゃないか―
おもむろに手を伸ばし、ロープを強く引っ張った。
からーんからんからんっ、と鐘は高らかに鳴り響く。
随分と長考だったな? 何を願ったんだよケイ
アイリーンの興味津々な問いかけに、
……秘密だ
ケイは、ただ笑った。
†††
その後、石像の前の箱が実は賽銭箱であったことに気付いたり、互いの『願い事』をそれとなく探り合ったり、それが由来して追いかけっこに発展したり、しかしスピードタイプのアイリーンに勝ち目はなくケイが呆気なく捕まったり、それで二人で密着してるところを不意打ちで管理人のオヤジに目撃されて恥ずかしい思いをしたり、などと色々あったが、日が傾き始めたのでケイたちは町に戻ることにした。
今日は、来て良かったな
少しは慣れてきた様子で、オールを漕ぎながらケイは、しみじみと呟く。
遠景に見送る白亜の神殿。あの場所がなければ、ここまでスムーズに、アイリーンと仲直りはできなかっただろう。心からの感謝をこめて、ケイはそっと、水の精霊に祈りを捧げた。
ああ、ホントに楽しかった
相槌を打つアイリーンも満足げだ。二人の間に、これまでのような、ぎくしゃくとした空気はなかった。
…………
不思議と苦痛ではない沈黙の中で、ただ水の音だけが静かに響く。遠目に映る小島、湖を行き交うボートに渡し船、徐々に茜色に染まりつつある空―全てが優しく、穏やかだった。
ふとした拍子に、二人の目が合う。
視線が絡み合い、気恥かしげに逸らされ、それでも再び、見つめ合う。
未だ明るい空の色に照らされ、アイリーンの顔だけが鮮やかに浮かび上がる。きらきらとした光をたたえる蒼い瞳―夜空の星なんかより、よほど綺麗だ、とケイは感じた。
なあ、アイリーン
うん?
ケイは自然と、口を開く。微笑みを浮かべて、アイリーンが応える。
何を言おうか、と言ってから考えたが、それでも自然と口は動いた。
俺さ―、実は
アイリ―ンッッッ!!!!!
突如として、響き渡る、
!?
聞き覚えのあるハスキーボイス。
弾かれたように、ケイとアイリーンは見やる。
数十メートルほどの距離。巡礼者たちを多数乗せた渡し船。
その中に、こちらに向けてぶんぶんと手を振る若者の姿―
アイリーン! こんなトコにいたのかよぉー!!
大声で叫ぶのは、他でもない、アレクセイだった。 げェッ! とケイとアイリーンの声がユニゾンする。
朝からずっと待ってたのに! 薄情だぜええアイリーンッッ!
そう言いながらも、どこか屈託のない笑顔で叫ぶアレクセイは、良く見れば顔が赤い。その周囲でヘラヘラしている若者たち―隊商の見習い連中だ―も同様に、どうやら酔っ払っているようだった。
ちくしょぅー遠い! 遠いよアイリーン! 今そっちに行くからなっ!
やたらといい笑顔で不穏なことを宣言したアレクセイは、あろうことか、その場でポイポイと服を―
わ! わ! わ!
畜生なんなんだアイツ!
顔を赤くして目を背けるアイリーン、ケイが我に返ってオールを握りしめる頃には、アレクセイは生まれたままの姿で船上で仁王立ちしており、
アッイッリ―ンッッ!!!
一声叫んでから、見事なフォームで湖に飛び込んだ。ザッパーンと上がる水しぶき。
アイリ―ンッッ!!
そしてそのまま、限りなくバタフライに近い泳法で、息継ぎの合間にアイリーンの名を呼びながら見る見る間に距離を詰める。
ケイ! 逃げて!
言われるまでもない!!
ケイも、全力でオールを漕ぎだした。
本気のケイの腕力を受けて、オールは爆発的な推力を生み出す。が、それでも尚、アレクセイが僅かに速い。それこそまるで宙を舞う蝶のように、きらきらと水滴を輝かせながら、徐々に徐々に彼我の差を縮めていく。
クソッアイツ速いッ!
ケイ、このままじゃ追いつかれる!
アイリ―ンッ!!!!
湖の水は冷たいんじゃないのか!? 低体温症は!?
そんなもん知らねーよ!!
ア―イ―リ―ンッ!!!!
渡し船の巡礼者たちや周囲の荷船の乗組員たちは、その様子を見て笑い転げていたが、特にケイはそれどころではなく笑われていることに気付きすらしなかった。
何でここでお前が出てくるんだよッ!
真っ赤な顔で必死にオールを漕ぐケイ、アイリーンの名を連呼しながら泳ぎ続けるアレクセイ。
最初は悲鳴のような声をあげていたアイリーンは、そんな二人をよそに、いつしか腹を抱えて笑っていた。
夕暮れの湖の果てに、一艘のボートと一人の姿が消えていく―。
結果。
最終的にボートに追いついたアレクセイであったが、ケイのオールがた(・)ま(・)た(・)ま(・)頭部に直撃し、一撃で昏倒させられたので、そのまま事なきを得た。