森の暗闇から、赤い瞳の化け物が、ぬっと姿を現した。
―デカい。
その場に居合わせた者の思考は、その一言に集約される。
暗赤色の毛皮。首周りの白い斑点模様。盛り上がった肩の筋肉。口から突き出た鋭い牙。一本一本が草刈り鎌ほどもある長い爪。
体長は、優に4mを越えるだろう。若い個体―とケイは言ったが、『森の王者』と称されるに相応しい力強さが、周囲の空間に滲み出ている。
村の手前で立ち止まった”大熊”は、人間たちを睥睨するかのように目を細めた。
そして、グオオオオッと威嚇するかのように、凄まじい声量で、吠える。
空を圧する轟音に、護衛の戦士は震え上がり、商人と村人は腰を抜かし、荷馬車の馬たちが恐慌状態に陥った。
下肢にぐっと力を込めた”大熊”は、さらなる咆哮を上げながら、土煙を巻き上げて村に突撃する。木材で修復されかけていた壁の穴を文字通り木っ端微塵にし、人間たちには目もくれず、目指すは村の奥。並べられた荷馬車と、それに繋がれた馬達。
獣は、腹を空かせていた。
そして昨日喰らった、獲物の味を思い返していた。
―貧弱な二足歩行の猿よりも、肥え太った四足獣を。
なんと素晴らしいことか、今日の狩り場にはご丁寧にも、ずらずらと旨そうな獲物が並べられている。歓喜の咆哮を上げながら、“大熊”は走った。
それに対し、ケイは動く。
ピィッ、と吹き鳴らされた指笛に、近くの小屋の陰にいたサスケがいち早く馳せ参じる。その背に飛び乗りつつ、しばし右手を彷徨わせたケイは、鞍の矢筒から一本の矢を抜き取った。やたらとカラフルな装飾の、ややぼってりとしたデザイン―矢職人モンタン特製の『鏑矢』だ。
一息に引き絞り、打ち放つ。
ピューィピーッピロロロロと賑やかに、“大熊”の鼻先に鏑矢が飛来する。隠すつもりのない一撃、身を刺すような殺気、思わず反応した”大熊”は反射的に前脚で矢をはたき落とした。
折り砕ける鏑矢、しかし獣の足は止まる。胡乱げな赤い視線の先、そこには褐色の馬に跨る弓騎兵。自らの威容に怯えもせず、ただ醒めた目を向けてくる一人と一頭。
その、あまりにも冷静な態度が、森の王者の誇りに傷を付けた。先ほどの鋭い殺気も、あるいは十二分に脅威であったか。彼は、目の前の小さき者を、『敵』であるとはっきり認識した。
改めてケイに向き直り、“大熊”が全身の毛を逆立たせる。後ろ足で立ち上がり、万歳をするかのように両手を天に掲げた。それは、己の身体をさらに大きく見せるための威嚇行動。がぱり、と真っ赤な口腔が開かれ、
―!!!
再び、鼓膜が破れそうな咆哮。幾人かの村人が気を失い、隊商の馬が逃げ出そうと暴れ始める。
しかしそんな中、ただ一頭、サスケだけが”大熊”の目の前で平然としていた。
あるいは、彼はよく知っていたのだ。
自分の背に跨る主人の方が。
吠えるしか能の無い獣より、余程おっかないということを―。
サスケの背で、ケイは弓を引く。そこにつがえられた、青い矢羽の矢。モンタンに特注した、ロングボウ用の『長矢』だ。
“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“の最高の威力を引き出すために、全力で弦を引き絞ったケイは、冷徹な目で”大熊”を睨む。
ぴぃんッ、と冴え渡った空気の中、周囲の者たちは、ケイと”大熊”の間に引き結ばれた一本の線を幻視した。
解き放つ。
銀光が迸る。
真っ直ぐに、しかし”隠密(ステルス)“により一切の殺気を持たぬそれが、“大熊”の左胸に吸い込まれた。
―オオオォォ!?
驚愕とも困惑ともとれる叫びと共に、胸に手を当てた”大熊”が大きくよろめく。そしてそのまま転がるようにして、森の方へと遁走し始めた。
が、数歩と走らぬうちに、その脚からふっと力が抜け、顔面から地面に崩れ落ちる。
ズ、ズンッと地面を揺らす音。呻き声を上げながら、もぞもぞともがいた”大熊”はしかし、ごぽりと鮮血を吐き出した。徐々にその動きを弱々しいものにして、やがて完全に動きを止める。
ふむ、
用意していた第三の矢を、矢筒に仕舞いながらケイは呟く。
―どうやら、運良く心臓を破裂させたみたいだぞ
まるで他人事。ぽかんと口を開けていた皆の頭に、その言葉が沁み入っていく。
そして―時間と共に、それが理解へと変わる。
おお……おおおおお!
最初に快哉の叫びを上げたのは、護衛の戦士の一人だった。そして理解の追いついた者から順に、頬を紅潮させて叫び始める。おっかなびっくりで”大熊”の死体に近づくホランド、未だ呆気に取られたままのダグマル、他の村人と抱き合って涙を流すエリドア、 たった一矢で”大熊”を仕留めるなんて、聞いたことがねえぞ! と大興奮のアレクセイ。
ただ、熱狂する面々をよそに、
……オレの出番ねーじゃん
アイリーンは一人、ケイに向けて苦笑いしていた。
†††
その後は、ケイの指示のもと、“大熊”の解体タイムとなった。
ここ一番の脅威は駆逐したものの、村の壁に大穴が開いていることには変わりないので、盛大に篝火を燃やしながらの作業だった。毛皮は極力傷を付けないように剥ぎ取り、魔道具の材料となる目玉をくり抜き、牙や爪も採取しつつ、薬の材料になる一部の内臓を保存する。元が巨体なだけに作業は困難を極めたが、村人と護衛の戦士と商人見習い総出で力を合わせ、何とか無事に終わらせることが出来た。
生ける伝説とも言える”大熊”の素材。特に毛皮は、莫大な利益を生むだろう、というのがホランドの見立てだった。
こんなに状態の良い毛皮があるか! 剥製にしたらとんでもない値がつくぞ……!
ウルヴァーンに着いたら期待していてくれ、とホランドは興奮気味だ。
今回、この”大熊”はケイが独力で仕留めたものなので、そこから生まれる利益はケイが独占する運びとなったが、それに異議を申し立てる者は一人もいなかった。熊の肉を鍋にして焚き火を囲みつつ、商人たちが酒を振るまい、一同は夜遅くまで宴会と洒落こんだ。
そして、宴もたけなわになった頃。
皆に英雄として持ち上げられ、しこたま酒を呑まされたケイは、べろんべろんに酔っ払ってテントの中に寝転がっていた。
あ~、もうダメだ~、呑めない、ぐるぐる回る~
ケイはだらしないなーもうダウンかよ
顔を真っ赤にしてうんうん唸るケイの隣で、こちらも呑み過ぎて少々顔の赤いアイリーンが、くすりと頬をほころばせた。
……いやぁ。それにしてもケイ、よくやったな
う~ん。まさかな~俺も、一撃で倒せるとは思わなかった~。運が良かったな~
にへら、と上機嫌な笑みを浮かべるケイ。酔っ払ってはいるが、その言葉は、紛れもなく本心からのものであった。