……彼が夢で見たのは、『現身の鏡』。古の時代に天の使いによってもたらされ、そして喪われたという伝説の遺失物。
その鏡は何処までも無垢で、人の魂の姿を映し出すという。彼は、長い長い間、夢を見過ぎたせいで、魂そのものが変わってしまっていたのさ
……だから、自分が思っていたような、英雄になっちゃったの?
そう……『英雄の姿』を、彼は手に入れた。そして、彼は自分が空想していた通りに、まるで英雄のように強かった―。
元気になった彼は、自分が思い描いていたように、意気揚々と戦争に出かけていった。そして名を上げ、武功を上げ、見る見る間に出世していった……
へぇ! それでそれで?
……そして彼は、戦争で死んだ
ハイデマリーの一言に、エッダの笑顔が固まった。
……なんで?
流れ矢に当たって、死んでしまったんだよ。彼は英雄のように強く、英雄のように活躍したが、物語そのままの英雄―主人公では、なかったんだよ。彼はどんなに強くても、一人の人間に過ぎなかった……だから、偶然で、つまらないことで、死んでしまった
…………
やはり人間、身の丈に合った生き方がある、という話だねぇ……
ふぇっふぇ、と声をあげて、ハイデマリーは小さく笑う。対して布団をかぶったエッダは、 むぅ と難しい顔をした。
……ケイのおにいちゃんは、英雄かな
やがて、ぽつりと。
頭上の幌と、篝火の炎に揺れる影を眺めながら、エッダは呟いた。
……どうだろうねぇ
答えたハイデマリーは、
……そうだね。彼は、英雄だよ
そう言って、優しくエッダの頭を撫でた。
少なくともわたしらにとっては、ね……。今日の彼は、本当に勇敢だった。彼なら英雄になれると、わたしはそう思うよ。
さ、エッダや。そろそろ眠りなさい。明日の朝も、早いんだからね
……うん
大人しく目を閉じて、エッダは布団をかぶり直す。
……おやすみ
おやすみなさい
夜は、更けていく―。
†††
翌日、酷い二日酔いに苦しみながらも、隊商は村を出発した。
村人総出で、見送りをされながらの出立だった。少し気恥ずかしく、頭痛を抱えてはいたものの、ケイはそれに快く応えた。
昨日決意したことを、改めて心に強く刻みつけながら―
そこからは、再び拍子抜けするほどに、平和な道のりだった。
特にこれといった獣に遭遇することもなく、一日をかけて、夕方には次の村に到着する。
漏れなくそこでもケイの英雄譚が語られ、巨大な”大熊”の毛皮が披露され、一時は村中の人々がケイの元に集まり、村娘にチヤホヤされるケイにアイリーンが嫉妬し―等々あったものの、おおむね問題なく一日は終わった。
『それ』が起きたのは、翌朝のこと―
早朝、目を覚ましてテントから出たケイを、出迎える青年の姿があった。
アレクセイだ。いつになく真剣な表情。
どうしたのか、と訝しむケイを前に、アレクセイは腰の短剣を抜いた。
きらりと輝く銀色の刃を眼前に掲げ、重々しく口を開く。
―雪原の民の戦士、セルゲイの子、アレクセイ
朗々と、響き渡る低い声、
貴殿、朱弓の狩人ケイは、共にひとりの乙女を追い求む、我が恋敵である
は? と混乱するケイを置き去りして、アレクセイは口上を続けた。
故に、我が祖、アレクサンドルの名に於いて、
じっと、水色の瞳が見つめる、
―貴殿に、決闘を申し込む
それなりの”礼儀”と”作法”ってもんがある。
28. 決闘
―貴殿に、決闘を申し込む
アレクセイの言葉に、ケイは二の句が継げなかった。
ゲーム内であれば決闘と称して、一対一(タイマン)での勝負を持ちかけられたことは何度もあったが―リアルでやられるのは流石に初めてだ。
返答や如何に?
短剣を突き付けたまま、飽くまで慇懃な態度のアレクセイ。その様子を見るに、万が一にも冗談ということはあるまい。
未だ混乱のさなかにあるケイと、堅い表情を崩さぬアレクセイ。しかも片方が抜き身の短剣を突き付けているとあれば、ただならぬ二人の雰囲気を察したのか、隊商の面々や村人たちがわらわらと周囲に集まってくる。
どうしたどうした?
恋敵同士で決闘だとさ
ほう、痴情のもつれかね
ひそひそと言葉を交わす野次馬たち。彼らの視線にこの上ない居心地の悪さを感じながらも、ケイは 決闘? とオウム返しにする。
然り
ケイの目を真っ直ぐに見据えたアレクセイは、重々しく頷いた。
なんでまた急に
貴殿は、我が恋敵であるが故に
それ以上の言葉は不要、と言わんばかりの不遜な態度に、ケイも閉口せざるを得ない。
あーあー出やがった、雪原の民の悪い癖だよ……!
と、野次馬の片隅、ダグマルが頭痛を堪えるように頭を抱える。
……悪い癖、というと?
決闘だよ! トラブルがあれば決闘! 色恋沙汰で決闘! 犬が吠えても決闘!
呆れ果てた表情で、ダグマルは天を仰いだ。
何でもかんでも、腕っ節だけで解決しようとすんのさ。恋愛関連は特にそれがヒドい。雪原の民は一夫多妻制で、『強い男こそ良い嫁を貰うべき』って考え方でな。決闘による略奪婚も容認されてるんだよ。いい女がいれば婿の座を巡って、もれなく奪い合いが起きるって寸法だ
は、はぁ……
ダグマルの解説に、ケイはただ、気の抜けた相槌を打つしかない。どちらかといえば、恋愛に関してはロマンチストなケイからすれば、到底有り得ないような考え方だ。
……しかし実際のところ、どうなんだそれは。俺たちが闘ったところで、最終的に相手を選ぶのはアイリーンじゃないのか
仮に全く関係のない男が勝利したところで、それが女性の心にどう響くというのか。あるいは雪原の民の間では、選ばれる側の意思が介在する余地は無いのだろうか。眉根を寄せて、ケイは率直な疑問を口にする。
それに対しアレクセイは、ここにきて初めて慇懃な態度を崩し、 さも当然 と言わんばかりに肩をすくめて見せた。
惚れた男が情けなくボコボコにされりゃあ、百年の恋だって冷めるだろ?
おどけるような薄ら笑いと、瞳の中に踊る悪意の光。
……ほう
静かに、そして微かに。口の端を吊り上げて、ケイは曖昧な笑みを浮かべる。面と向かって言い放つということは、つまりはそういうことだろう。
安い挑発だ、と平静を保とうとしながらも、胸の内側にどろりとしたものが広がるのを止められない。ケイは決して喧嘩っ早い性質ではないが、これは少々頂けなかった。この軽薄な態度も、自分が勝つと信じて疑っていない傲慢さも、アイリーンを景品扱いしているところも、その全てが気に食わない。
―というか元からコイツは、何かと癪に障る奴だったな。