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心配するな

顔布の下、極力優しげな笑みを浮かべて、ケイはそっと、その手に自分の手を重ねる。

負けやしないさ。信じてくれ

……分かった

不安げな、そしてやるせない表情を浮かべたアイリーンは、最後にケイの手をぎゅっと握りしめて、野次馬たちの最前列にまで下がっていく。

…………

アイリーンから、視線を引き剥がし。

ケイは思考を切り替えた。

†††

五十歩の距離。

大股で歩いて、40m強といったところか。

それほど大した距離ではない―とケイは思う。本気のアレクセイであれば、おそらく数秒とせずに詰めてくる。どうしたものか、と他人事のように考えながら、“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“の弦を軽く弾いた。

ぶんっ、と心地よい音が耳朶を震わせる。

元々は、まず盾を破壊して戦意を喪失させ、後遺症にならない程度に痛めつけるつもりだったのだが―。あの金属製の円形盾(バックラー)、貫徹するには骨だぞ、というのがケイの正直に思うところだ。

概して、バックラーのような小型の盾は、その防御範囲の狭さから飛び道具に弱いとされる。だが、あの使い込まれた傷だらけの盾を見るに、アレクセイも相応の技量は持ち合わせているはずだ。最初の一矢、二矢は、避けられるか捌かれるか―いずれにせよ、無効化されるとケイは予想する。

(さて、どうやって『倒す』か……)

右手で矢筒の矢を弄びながら、じっくりと戦術を吟味する。殺そうと思っても死にそうにない、ふてぶてしい態度のアレクセイ、しかしそうであるからこそ、ふとした拍子に死んでしまうかも知れない。手抜きが許される状況でもなし、ここは身から出た錆ということで、ある程度の後遺症は覚悟して貰おうという結論に至った。

視界の先―ちょうど五十歩の間合い、アレクセイがこちらに向き直る。

右肩に大剣を担いだまま、長く伸びた柄に左手を添えた。両手持ち―ちょうど左腕のバックラーが、胴体を覆い隠す位置に構えられている。腰を落とし、かすかに上体を前傾させた姿からは、手足の末端にまで満ち満ちた気が見て取れるかのようだ。

(……まるで示現流だな)

二ノ太刀要ラズ。何よりも疾く、一撃を叩き込む。そんなシンプルにして、苛烈な意志。五十歩の間合いを隔てても尚ひしひしと伝わってくる、今にも爆発しそうな戦意の高まり、ぎりぎりと軋みを上げる筋肉の躍動―。

双方とも……準備はいいな

二人の間に立ったホランド。沈黙を肯定と取ったか、ひとり頷き、

それでは……先ほども言ったが、両者ともに悔いのないように。また、今後に禍根を残さぬために、全力で闘いつつも、ある程度の手心を忘れないように。万が一、怪我などで決闘の継続が不可能であると判断された場合は―

くどい

ぴしゃりと、アレクセイの冷たい声がホランドを黙らせた。

“―これはおれたち二人の問題だ。あんたには関係がない”

不意に、アレクセイの言葉が頭の中に木霊する。そのとき無言を貫いたケイであったが、初めて、アレクセイの言う事に共感できたような気がした。

口元しか見えぬアレクセイの顔―にやりと歪んだ唇が、 さあ、始めよう と告げる。

……ああ

小さく頷いて。

ケイは矢筒から矢を引き抜いた。

つがえる。

引き絞る。

そこに、言葉は不要。

双方が同時に、

動いた。

アレクセイが地を蹴る。

爆発的な加速。

速い。

地を這うように、二、三歩で最高速に達した。

かすかに粉塵を巻き上げながら、アレクセイは真っ直ぐに迫る。

―まずは、小手調べ。

間髪いれず、迎撃の矢を放つ。

快音、穿たれる風。

身体の中心線を抉るように、白羽の矢が飛来する。

しかし、体を僅かに捻り、アレクセイは余裕を持ってそれを回避した。初撃はやはり見切られたか、と平坦な思考が流れていく。

続けて、第二射。

今度は避けられず、いや、回避による時間のロスを嫌ったか、無造作に掲げられた盾が矢を弾き飛ばす。ガァンッ、と硬質な音、火花を散らして明後日の方向に逸らされる。やはり並の一撃では、あの盾は貫通できないという確信。

三本。

まとめて、矢筒から引き抜いた。

構え、引き絞り、放つ。その瞬間、ケイは精密機械と化す。

カカカッ、と小気味よい連続音、強弓から銀光が閃いた。目にも止まらぬ早業、野次馬たちがどよめき、同時にそれは―殺気に強弱を織り交ぜた巧みな連撃。敢えて中途半端に込められた殺気が、彼我の距離感を狂わせる。回避行動を取り辛くさせる妙技、護衛の傭兵たちが唸った。

しかしその好敵手もまた、只者ではない。

ただちに軌道を見切り、最適解を弾き出す。一本は盾で、一本は剣で、一本は脛当てで、それぞれ受け止めた。派手に火花が飛び散り、けたたましい金属音が鳴り響く。しかし一矢足りとも彼の者を傷付けるまでには至らない。

既に間合いを詰めること、おおよそ三十歩。ニィッとアレクセイが笑みを深める。残り二十歩を数えるうちに、決着をつけねば勝機は無いと―。

(ただの矢じゃ、貫通は無理か)

静かに、ケイは分析する。決して、手加減したわけではない。今までに放った矢は全て致命傷たり得るもの。板金程度ならば容易くブチ抜く威力、しかし、アレクセイの防具は耐えた。あの、白っぽい金属―何の合金かは知らないが、相当に良質なものだろう。

(た(・)だ(・)の(・)矢(・)では、無理か……)

―ならば、其れ相応のものを。

ケイは、矢筒から抜き取った。

青(・)い(・)羽(・)の(・)矢(・)を―。

……!

見守っていたアイリーンが、まさか、と息を呑む。

“大熊”さえ一撃で絶命せしめたそれを。

決闘で、人間に対し用いるのかと。

―そう。

ケイは、矢をつがえる。

両者の距離は、残り十歩を切った。

アレクセイは、目前だ。凶暴な笑み―獲物を喰い殺さんと、不気味な沈黙の中にしかし狂犬は猛る。兜の面頬、その隙間の奥にあっても尚、水色の瞳がぎらぎらと血に飢えた光を放つ。

対するケイは、少しだけ目を細め、きりきりと弦を引き絞る。

死ぬなよ

小さく、呟いた。

―快音。

凄まじい勢いで撃ち出された銀光が、馬鹿正直に、真正面からアレクセイに迫る。

ろくに視認すら出来ぬ速さ、しかし、真正面であればこそ見切るのは容易い。

その笑みをさらに好戦的な色に染め、あらかじめ身構えていたこともあり、アレクセイは余裕をもって盾で受けた。

が。

ボグンッ! と異様な音が響く。

矢は―

盾の中心に、突き刺さる。

丸みを帯びていた表面は無残に陥没し、矢はその裏の左腕を食い破って、あまつさえ鎧の板金と革を穿ち、胸に突き立ってようやく止まった。