背中を襲った恐ろしい衝撃に、セピア色の記憶が砕け散った。
がつんっ、と顔面を襲う衝撃。ただでさえ血塗れだった口、その唇が切れて血が噴き出した。
地面とキスをしている―その状態に気付いたのは、一拍遅れてのこと。やたらと長く感じた滞空時間、ロクに受け身すら取れず地面に叩きつけられたらしい。
―いや、それはいい、地面の方向が分かったのだから。
震える足腰に、立ち上がれ! と命じる。
大地に手をついて、起き上がろうとしたところで―
アレクセイは、立て続けに乾いた音を聴いた。
次の瞬間、ハンマーで殴られたかのような衝撃が頭部を襲い、アレクセイの意識は闇に呑まれた。
†††
おおおおお!!!
どさり、と力の抜けたアレクセイが地面に倒れ伏すのを見届けて、周囲の観客たちが沸き立った。
あっぶねえ……
それをよそに、ケイは呼吸も荒く口元の顔布を取り去った。即座に確かめたのは、“竜鱗通し”の状態。大剣を受け止めた部分が少し凹んでいるものの、それ以外に異常は見られなかった。何度か思い切り引いてみたが、致命的な損傷もしていないらしい。
ケーイ!!
泣きそうな顔で、アイリーンが駆け寄ってくる。
大丈夫か!?
ああ、大丈夫だ、かすり傷さ
大丈夫じゃないだろ! 血が出てる!!
ぺたぺたと、ケイの顔や左肩に触れるアイリーン。
思ったより、手古摺っちまった
ピエールや見習いの若者たちに介抱されているアレクセイを見ながら、ケイはしみじみと呟いた。未だ気絶したままのびているようだが、咄嗟に”竜鱗通し”で防御していなければ、今頃あそこに転がっていたのはケイだったかもしれない。
(っていうか下手したらお互い死んでたなアレは……)
決闘を振り返って、ケイは渋い顔をする。アレクセイも大概な勢いで来ていたが、ケイも『長矢』の威力の調整を失敗していれば、何が起きたか分からない。
(気持ち弱めにしといてよかったな……)
アレクセイの鎧の胸元に開いた風穴を眺めながら、そんなことをつらつらと考える。
……ケイ? ケーイー?
と、目の前でアイリーンが手を振っていた。
ん? なんだ?
なんだじゃねえよ、大丈夫か? 頭打ってないか?
ケイの額に手を当てて、心配げなアイリーン。
大丈夫だ。そこまで大した傷じゃない
そうか……
うん……
ケイは微笑みを浮かべて、うるんだアイリーンの瞳を覗き込む。
…………
しばし、そのまま見つめ合っていたが、すぐに二人とも様子がおかしいことに気付いた。
静かすぎる。
恐る恐る、といった様子で、周囲を見回して見れば、
ん~ん。お熱いねぇお二人さん
ニマニマと、生温かい笑みを浮かべてこちらを見つめる、顔、顔、顔―。
ボッと、ケイとアイリーンの顔面が赤く染まる。
よーしケイ! これで名実ともに、アイリーンはお前さんのものだ! 喜べ!
完全に酔っ払いモードのダグマルが、葡萄酒の杯を掲げながら叫ぶ。どっと沸いた野次馬たちが、それに続くように歓声を上げた。
いや~あんな美人の嫁さん、羨ましいなぁ!
なぁ!
よっめ入り! よっめ入り!
よっめ入り! よっめ入り!
手拍子ととも、謎のコールが始まる。ケイたちは恥ずかしいやら何やらで、困り顔のままもじもじとしていたが、
キスしろ~!
誰かが叫んで、その場の空気が変わった。男性陣は雄叫びに近い叫びをあげ、村の女性陣は黄色い悲鳴を上げる。
キース! キース! キース!
ぐるりと周囲を取り囲んで、手拍子と共に囃し立てる群衆。ケイとアイリーンの顔面は赤色の限界に挑もうとしている。
ケッ、ケイ!
叫んだアイリーンが、ケイの手をぐいと掴んだ。
なんだ!
逃げよう!
アイリーンに手を引かれ、ケイも走りだす。大盛り上がりの村人たちを押しのけ、二人はなんとか、包囲網を突破することに成功した。
意気地なし~!
根性見せやがれ~!
全力で逃走する二人に対し、村人たちの冷やかしは続く。
しかし、追いかけようとする者は、誰一人としていなかった。
†††
……まったく、もう!
村外れ。川沿いの木陰で、アイリーンは口を尖らせている。
怪我しないって約束しただろ!
不機嫌の理由は、主にケイの負傷だ。アイリーンの前で上半身裸になったケイは、あらかじめ準備していた薬草などで、肩の切り傷を消毒していた。
ちなみに念のため、アイリーンはポーションも持ってきているのだが、それほど重傷ではないため、今回は使わないこととする。
すまんすまん、イテテ……染みるなぁこの薬草
POTほどじゃねーだろ
顔をしかめるケイに、消毒用の軟膏を塗り込むアイリーンは容赦がない。
川のせせらぎの音を聴きながら、しばし、場を沈黙が包む。
……よし、はい終わり
肩の傷に包帯を巻いて、ぽんぽん、とケイの頭を叩くアイリーン。
ありがとう
まったく、金輪際こういうのはナシだぜ! すっごいヒヤヒヤしたんだからな!
ポーチに薬を仕舞いながら、アイリーンは怖い顔をしてみせる。ケイはそれに笑って、しかしすぐに表情を引き締めた。
すまん。でも、お前を取られたくなかったんだ
真剣な顔のケイを、横目でチラ見したアイリーンは、ポーチを片付けながら はぁ と溜息をついた。
じゃあ、何か。今のオレは、ケイのものなのかな
……すまん。言い方が気に障ったなら謝る
感情を感じさせないフラットな言い方に、ケイは慌てて声を上擦らせた。しかし、そんなケイの様子を見て、アイリーンは逆に口元をほころばせる。
……なあ、ケイ
な、なんだ?
目の前で膝をついて、アイリーンはじっと、ケイの瞳を覗き込む。
やがて、ゆっくりと手を伸ばしたアイリーンは、ケイの右手を手にとって、―自身の胸元へと導いた。
お、おいっ
なぜ、自分はアイリーンの胸にタッチしているのか、なぜアイリーンはこんな真似を―と一気に挙動不審になるケイであったが、数秒とせずに、気付いた。
アイリーンの右胸。この、今自分が触れている部分は、かつて毒矢が突き立っていた場所であるということに―。
あの日のこと、オレ、あんまりよく憶えてないんだ
ぽつりと、アイリーンは言った。
でも、ケイがオレのこと、守ってくれたのは、憶えてる
青色の瞳が、揺れる。
なあ、ケイ……命を助けられるのって、けっこう、凄いことなんだぜ
胸元に抱いたケイの手を、アイリーンは、愛おしげに撫でた。
それに、オレは……ケイと違って、ケイが男だってこと、最初から知ってたんだ