そう―盟主たるウルヴァーンを差し置いて、最大の経済力を、だ。
元々、軍事力のウルヴァーン、工業力のガロン、そして何事もそつなくこなすサティナ、という風にバランスが取れていたのだが、この問題のややこしいところは、実は公国の盟主は必ずしもウルヴァーンと決まっているわけではない、という一点にある。
アクランド連合公国に名を連ねる貴族たちは、ウルヴァーンの領主に対して絶対的な忠誠を誓っているわけではない。
ただ、強大な軍事力を誇るウルヴァーンが、諸侯に安全を約束することで、主従の契約を結んでいるに過ぎないのだ。
故に、称すること、『アクランド”連合”公国』。その権力は流動的で、ときには酷く曖昧ですらある。
そもそも歴史を紐解けば、ほんの百年ほど前までは、『アクランド連合公国』なる国家は存在していなかったのだ。当時はキテネを主体とした小国で、その中でもウルヴァーンは一地方都市に過ぎなかった。また、現公王たるクラウゼも、その出自を辿っていくと、かつてのキテネの領主の血筋に行きあたる。度重なる政変や異民族との衝突、そしてウルヴァーンの発展を受けて当時の領主が『遷都』し、その結果生まれたのが現在の公国なのだ。
裏を返せば―今後再び、『遷都』が起きる可能性も、ゼロではない。
とはいえ。
港湾都市キテネが絶大な経済力を誇るのも、別に今に始まったことではなく。
ウルヴァーンも、草原の民を支配して、その本拠地の岩塩の採掘権を押さえることで、塩の独占に対抗してみたり。
サティナも独自の税制を採用することで、キテネ経由の商人を牽制し、他の経済圏へのアプローチを積極的に行ったり、と。
良くも悪くも政治には関わり合いにならないガロンを除いて、それぞれいい意味で牽制と調整を繰り返し、これまでは特にこの問題が表面化することはなかった。
しかし。
ここにきて最近、キテネの領主に不穏な―どこか、野心的な影が見え隠れするようになってきた。
あの『噂』の件がなければ、と思わずにはいられませんな……
はぁ、と珍しく愁傷な顔で、ヴァルターは嘆息する。
数ヶ月前のこと。一般民衆の間で、とある噂が流行り出した。
曰く、現公王陛下は体調が優れず、間もなく崩御なさる。
曰く、跡取りのディートリヒ様は若すぎるため、代わってキテネの現領主が、公国の盟主になられる。
―と。
街角で、市場で、あるいは場末の酒場で、まことしやかに囁かれたこの噂は、異様なほどの速度で公国全土に広まった。
その不自然さ、そして単純に不敬であるという理由から、宰相ヴァルター率いる諜報部が出所を探った結果―
港湾都市キテネに行きついたのだ。
勿論、キテネの領主は即座にこれを否定したが、このことが判明した際、ウルヴァーンの貴族たちは、揉めた。
―これは、ウルヴァーンに対するキテネからの挑発である、と。
そう、受け取る者が少なからずいたのは、事実だ。
(……滅多なことは無い、と思いたいがのう)
顎鬚を撫でつけながら、クラウゼは考える。思い浮かべるのは、キテネの領主の顔。
(何を考えていることやら……)
年に数回、顔を合わせているが、彼は代々受け継いできた華やかな商才の割に、寡黙で実直な男という印象だった。しかし、そうであるが故に、時折何を考えているのか、推し量りにくいところがある。
論理的に考えて、実質的な軍事力に劣るキテネが公王の座を狙ったところで、無駄に金がかかるばかりでメリットと言えるメリットはない。また、キテネに『そのつもり』がないということを、クラウゼは半ば直感的に確信していた。
(しかし、そうであるとするならば、他の勢力が噂を流したことになる)
そもそも、クラウゼの体調不良は、一部の貴族にしか知られていない機密事項だ。誰かが思いつきで、ひょいと流せるような代物ではない。となると、公国内の貴族に不和の種をばらまくため、何者かが意図して噂を流した、と考えるのが自然なわけだが―
(―誰が? そして、どのような意図で?)
その正体も謎だが、意図するところも分からない。正直、工作として噂をばら撒くならば、もっと上手いやり様がある。この場合、噂の広まり方―拡散速度があからさま過ぎるため、『工作である』と自分から喧伝しているに等しいのだ。
(誰が、何のために……?)
いくら考えても、ぐるぐると疑問が渦を巻くばかりで、胸の内側にずしりとしたものが積み重なっていくかのようだった。そして、ふいに思い出したかのように、肺の奥から湧き上がってくる、重い咳。
ゴフッ、ゴフッと激しくせき込み、クラウゼは悲観的な考えを振り払うかのように頭を振った。
(まったく、こんなことでは身が持たんな……)
―老いを感じる。口にこそ出さないが、このところは物忘れも激しい。
万が一のことがある、とは自分でも考えたくないし、出来る限り国の行く末を見守りたいとは思うものの、やはり頭がはっきりしているうちに自分は身を引くべきだ、とその思いを新たにする。
(許せディートリヒ……重荷を背負わせることになる)
まだ若い―幼いとすら言っていい、孫の顔を思い浮かべながら、老いた王は溜息をつく。
ひとつ、溜息をついて―暗い考えは、終わらせることにした。
……そう言えば、そろそろ、殿下の御誕生日ですな
それを見計らったかのように、ヴァルターが話題を振ってくる。
早いものよ、あの子ももう十四になるか
祖父の表情、と言うべきか。腕組みをしながらのクラウゼの顔は、この時ばかりは、どこまでも優しげであった。
……盛大に、祝ってやらねばならん
民への披露目も兼ねて、と呟く。
それでしたら、やはり、何か催し物を企画するべきですかな?
……そうよな、今後のことも考えると……
コツコツ、と指先で執務机を叩きながら、クラウゼは考えを巡らせる。
……腕利きの戦士は、いくらいてもいい。武道大会でも開くか?
ちら、とクラウゼが目をやると、ヴァルターは満面の笑みで答えた。
良い考えであられます
では、そのように計らえ
はっ
恭しくヴァルターが頭を下げたところで、扉の外から、足音が聞こえてくる。
クラウゼは威厳のある表情を取り戻し、ヴァルターは姿勢を正した。こんこん、と扉を叩く音。
―アントニオ様がいらっしゃいました
通せ
平坦な声で、ヴァルターが答えた。
扉が開かれ、茶器を携えた侍女と共に、一人の男が執務室に入ってくる。
丸顔で、歳は四十代前半ほどか、ぽっちゃりとした体格の男だった。幾つもの宝石が縫い付けられた煌びやかなローブ、頭頂部には羽根飾りのついた小さな帽子、ひと目で上級貴族と知れる出で立ちをしている。