唸りを上げて、一瞬前までケイの胴があった空間を、黒い矢羽が引き裂いていく。
(やってくれるッ!)
少なくとも一人は、腕のいい弓使いがいる。振り返れば、黒い革鎧を装備した男たちが、手に手に武器を振り上げて騒ぎ立てていた。
ケイは手綱を操り、木立の間を縫うようにしてジグザグに不規則機動を取り始める。生い茂る木々が障害物になったこともあり、襲撃者たちの狙いに迷いが生じたらしい。追加で放たれた矢はどれも見当違いの方向へと逸れ、虚しく木の幹に突き刺さる。
見た限りでは、騎乗生物の影もない。―逃げ切れる、とケイは確信した。
そのまま木立を抜け、草原を東に突き進む。
(……さて、となると治療だが、どうしたものか)
ケイは心配げに腕の中の少女を見やった。馬の揺れに耐えるように、苦しげに眉根を寄せるアイリーン。
右胸の矢傷。辛うじて動脈の位置からは逸れているものの、鏃の形状によっては血管が傷ついている可能性もある。少なくとも肺に穴が開いているのは確実だ。このままでは呼吸もままならない。また、これだけの傷を抱えたまま馬に揺られるのは、お世辞にも体に良いとは言えないだろう。
しかし、先に治療するという選択肢はなかった。
確かにポーションを使えば、傷そのものはすぐに完治するかもしれない。だが、先ほどの手の平の傷を治した際の苦しみ方を考えると、これほどの重傷を治療した場合、すぐに復帰するのはおそらく不可能だろう。最悪、痛みで気絶してしまう可能性すらある。
治療中は完全に無防備。その後も、気絶したアイリーンを庇いながら戦う羽目になるかもしれない―そういった諸々を考慮すると、おのずと安全な選択肢は限られていく。
すなわち、逃げる。
周囲の地形は既に把握済みだ。このままミカヅキに駆けさせていれば、追っ手は完全に撒けるはず。ある程度進んでから、アイリーンに治療を施して再び距離を取ってもいい。
もしくは、容体が安定したところでサスケにアイリーンを任せて、ケイが単独で遊撃に回るという手も―
バウッ、バウッ
と、背後から響いた獣の鳴き声に、ケイの思考が妨げられる。
弾かれたように振り返れば、地を這うように駆ける、三つの大きな黒い影。
―“狩猟狼(ハウンドウルフ)”!
黒色のぼさぼさとした毛並み、ぴんと尖った耳に、星明かりの下でも不気味に輝く両眼。首にはめられた革の首輪が、野生ではなく調教(テイム)された個体であることを示す。
ハウンドウルフ。別名、“黒き追跡者(ブラックシーカー)”。
ゲーム内で、攻撃補助用のペットとして、非常に人気の高かったモンスターだ。その凶暴性から調教が難しく、手懐けるのは至難の業とされていたが、一度懐けば従順になり、決して主人を裏切らず、あらゆる局面で有能に立ち回る。
大柄な体躯、それに見合わぬ俊敏さ、底知れぬスタミナに、高い攻撃力。
そして何よりも恐るべきは、その追(・)跡(・)力(・)だ。
狼としての嗅覚をフルに生かし、どこまでも執拗に獲物を追い続ける。馬の駆け足程度の速さならば一晩中でも走り、三十分ほどならば馬の襲歩にすら追随が可能。
例え地の果てまで行こうとも、『臭い』が残っている限り、彼らから逃れる術はない。ハウンドウルフが自ら追跡を止めるのは、主人の笛に呼び戻されたときか、獲物の喉笛を喰い千切ったときだけだ。
そんな、死神の先駆とでもいうべき黒き獣が―三頭。
……こいつは、
厄介だ。ケイは思わず舌打ちした。じりじりと距離を詰めながら、狼の群れがそうするように、散開し追い立ててくるハウンドウルフ。時折、三頭のうちいずれかが足を止めて、夜空に遠吠えを上げている。そうやって『獲物』の位置を知らせるよう、訓練されているのだろう。
一瞬前までは気楽な逃避行だったのが、今や手に汗握る狩猟劇に様変わりだ。しかも、ケイは『狩られる』側―後ろを走るサスケも、怯えの色を見せている。
クソッ、弓さえ使えりゃな……
左腕にアイリーンを抱きかかえたまま、狼たちを睨み、ケイは忌々しげに毒づいた。
平素であれば、弓騎兵のケイにとって、ハウンドウルフは恐るるに足る相手ではない。
馬型の騎乗生物の中で最高性能を誇るバウザーホース(ミカヅキ)を駆り、百発百中の弓の腕前をもってすれば、ハウンドウルフなど足が速いだけの『的』にすぎない。むしろ、図体がデカくて逃げない分、草原の兎より仕留め易いぐらいだ。
が、今はアイリーンで片腕が塞がっている。先ほどから色々と試みているのだが、ぐったりとした彼女を腕無しで支える術がない。ゲームでは常に弓で戦ってきたケイにとって、この状況は想定外と言ってよかった。
仮に、これがゲームであれば、ケイは即座にアイリーンを放り出すだろう。
地面に激突した衝撃で死ぬかも知れないし、もしくはハウンドウルフに食い殺されるかも知れない。しかし、その隙に弓を使えば、一瞬でこの黒い獣どもを殲滅できる。
その後で―生死を問わず―アイリーンを回(・)収(・)し、治療するなり拠点で再受肉(リスポーン)させるなりすればいい。それならば能力低下(デスペナ)も所持品紛失(アイテムロスト)も免れる。なんのデメリットもない。
しかし、それが現実となると―。
(放り出すわけにはいかないよな)
腕の中、馬の揺れに耐えるように眉を寄せるアイリーン。
か弱い少女を捨て置く、ましてや馬から地面に投げ捨てるなどと、そんな鬼畜の所業はやれと言われてもできないだろう。
(ここが DEMONDAL の世界なら、復活も可能かもしれんが……)
ゲームに似(・)て(・)い(・)る(・)だ(・)け(・)の異世界、という可能性もある以上、無茶はできない。ぶっつけ本番で試すには、あまりにもリスクが高すぎた。
ウォン、オンッ!
吠え声。そうやって考えている間にも、ハウンドウルフたちがじりじりと追い上げてきている。
全力で駆けるこの黒き追跡者たちは、瞬間的な足の速さにおいて、今のミカヅキを上回っているのだ。
ゲーム内の馬型の騎乗生物では最高の速度、最高レベルのスタミナ、そして優れた走破性能を誇るバウザーホース―ミカヅキだが、いかんせんこの種族、加重に弱い。パワータイプではなく、スピードタイプなのだ。アイリーンという同乗者が一人増えただけで、最高速がガクンと落ちていた。
おいミカヅキ、根性出せ! お前の速さはこんなものじゃないはずだ!!
無茶言うな、と言わんばかりにミカヅキがちらりとケイを見る。これでも、よく走っている方だ。筋肉の密度が尋常ではないケイは、見かけに比してかなり重い。そこに重量オーバーで同乗者が加わっているのだから、既にいっぱいいっぱいの状態だった。