(……逃げ切るのは無理だな)
分かってはいたが、改めて悟ったケイの目が遠くなる。そもそも、ここで少々加速したところで、ハウンドウルフの追跡は止まらない。先ほどから、アイリーンが腰の帯に差している投げナイフが、ちらちらと目に入る。
残念ながらケイは、ナイフ投げが不得手だ。練習したことはあるが、実戦ではまともに刺さった試しがない。
ましてや今は揺れの激しい馬上、動く目標に投げつけてみたところで、牽制にすらならないだろう。
(……手持ちのカードで勝負するしかない、か)
腰のポシェットに手を伸ばす。取り出したのは、ウズラの卵ほどの大きさの、鉛玉。
礫(つぶて)だ。
対人用のお守り代わりに持ち歩いていたもの。全身が分厚い毛皮で覆われた獣には効果が薄いが、無いよりはマシだろう。
せめて額にブチ込めれば……
右手側のハウンドウルフに狙いを定める。鐙(あぶみ)を踏むケイの足の動きから、その意図を察したミカヅキが、やや時計回りに円を描くよう馬首を巡らせた。
急激に接近してくるケイたちに、件のハウンドウルフは飛びかかって食らいつかんと、走りながら姿勢を低くする。
そしてぐっと脚に力を込め、まさにミカヅキに牙を剥こうとした、その瞬間。
ケイは右手を振り下ろす。
ビッ、と腕が空を切る音。最適化された動作、並はずれた筋力、それらを合わせた礫が至近距離から放たれる。
野生の動物をして反応する暇すら与えずに、人外の威力を秘めた礫がハウンドウルフの顔面に炸裂した。
ぎゃんッ!
鼻づらに強烈な一撃を見舞われたハウンドウルフは、短く悲鳴を上げてその場にひっくり返る。地面の上で鼻を押さえてのた打ち回る獣の姿が、すぐに後方へと流れて小さくなっていった。
一頭が戦線離脱―とケイの気が若干緩もうとしたところで、 ぶるるっ とミカヅキの警戒の声。見れば左手、いつの間にか至近距離まで迫っていた一頭が、こちらに飛びかかろうと既に身構えていた。
(―いかん!)
礫を取り出すのは間に合わない、と判断したケイの右手が、腰の短剣に伸びる。
ハウンドウルフが地を蹴るのと、ケイが短剣を引き抜くのが同時。
いかに俊敏な狼といえど、空中で姿勢を変えることは出来ない。ハウンドウルフの首筋に、ケイは真っ直ぐ短剣を突き出した。
肉を裂き、短剣の刃が首筋の骨に食い込む感触。ぐぼっ、と湿り気のある音が、狼の喉から漏れる。しかし、明らかな致命傷を受けてもなお、怯む様子すら見せないハウンドウルフは、ケイの右腕に牙を立てようと大きく顎を開いて首を巡らせた。
その執念、そして闘争心に驚きながらも、ケイは咄嗟に短剣から手を離す。
喉元の支えを失った黒き狩人は、ケイに噛みつくことはかなわずに、そのまま夜の草原に叩きつけられて事切れた。
残るは一頭……!
後方、追い縋る最後のハウンドウルフを見やり、ポシェットを探る。
残りの礫は、二つ。
そのうちの一つを右手に構え、慎重に狙いを定めた。
ぐルルル……
警戒するように唸り声を上げたハウンドウルフは、姿勢を低くしながら小刻みに軌道を変え、ケイを翻弄しようと試みる。
彼は知っていたのだ。ケイの右手から、何か危険なモノが放たれるということを。そして不用意に近づけば、自らのそれよりも鋭く長い爪に、手痛い反撃を貰うであろうということも。
まったく、賢しらな獣だった。そのことに感心すると同時に、忌々しくも思う。
ゲームみたいに、大人しく狩られていればいい……!
そう、吐き捨て。黒き獣。睨みつける。
(―死ねッ!)
最大級の殺意を込めて、全身に力を漲らせた。
!!
物理的な圧力すら感じさせる濃厚な殺気。全身の毛が逆立つような指向性のある悪意。思わず震え上がったハウンドウルフの体が一瞬、硬直する。
その、間隙。
ケイの右腕がブレた。
ビシュッと鉛の礫が空を切る。ケイが全力で投じた、必殺の一撃。
しかし幸か不幸か。ケイは目測を誤った。
ハウンドウルフの額を狙って投じた礫は、僅かに耳を掠めて、その背中に命中する。
毛皮越しに鉛が肉を打つ、痛そうな音。が、獣にとってその程度の痛みは、むしろ神経を逆撫でするものでしかなかった。先ほど、ケイに『恐れ』を抱いてしまったことを否定するかのように、牙を剥いた狼は激しく吠えかかりながら突進してくる。
“能動発気(アクティブセンス)“は苦手だな……
慣れないことして手元が狂ったか、とため息をつくケイ。礫は外れ、血走った獣が目の前にまで迫っているというのに、その態度は落ち着いたものだった。
なにせ、決着はもう、ほとんど着いているのだ。
完全にケイに気を取られていた狼が、も(・)う(・)一(・)頭(・)の存在を思い出したのは、視界の端に褐色の毛並みが映ったときだった。
ぶるるォッ!
ハウンドウルフの後方から、いななきを上げながらサスケが猛然と突っ込んでくる。思わずぽかんと口を開いて呆気に取られる狼。その無防備な横腹に、サスケは右前脚の蹄を容赦なく叩きこんだ。
キャンバス地が破れるような音を立てて、黒い毛並みの腹が切(・)り(・)裂(・)か(・)れ(・)る(・)。口から血反吐を吐いてよろけた狼に、止めとばかりにサスケの後足キックが炸裂。ハウンドウルフは、腹から臓物を撒き散らしながら吹き飛んでいった。
Well Done(よくやった)!
ケイの快哉の声を聞いて、 ふふん、ぼく強いでしょ とでも言いたげに得意げな顔をするサスケ。その足の裏、かかと部分の裏側に展開されていた鋭い骨の刃が、音もなく畳まれてただの蹄に擬態した。
バウザーホース。
馬型の騎乗生物の中では最高レベルの性能を誇る彼らだが、厳密には馬ではない。高いレベルで馬に擬態した、凶暴な雑食性のモンスターだ。手懐けるのはハウンドウルフ以上に難しいとされ、仮に使役に成功したとしても、その扱いには注意を要する。
……ミカヅキ、お前もよくやった。ありがとうな
ぽんぽんと、ミカヅキの首筋を叩いて、労をねぎらう。言われるまでもないわ、とでも言いたげに、ちらりとケイを見て鼻を鳴らすミカヅキ。
こうやってきちんと感謝の念を示さないと、ヘソを曲げるのがバウザーホースだ。ゲーム内のAIですらそうだったのだから、いわんや異世界をや。どうにか人里を見つけられたなら、野菜にせよ肉にせよ、何かしら豪勢な餌を用意するべきだろう。
(……だが、今はアイリーンの治療が先だな)
不安げに眉根を寄せて、ケイは嘆息する。それはそれで、考えると気が重い。
ミカヅキを早足で駆けさせながら、左手に広がる草原と右手側の森を見比べたケイは、―しばし迷ってから、森の方へと馬首を巡らせた。