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これから行う『治療』に不安を隠せないケイを乗せ、ミカヅキはゆっくりと暗い雑木林に踏み込んでいった。

†††

雑木林の中は、ほぼ真っ暗闇だった。頭上に生い茂る木の葉のせいで、わずかな星明かりすら遮られている。

(これだけ暗ければ、人間に奇襲されることはないだろ)

並みの人間の夜間視力では、歩くことすらままならないはずだ。それでいてこの雑木林は、背が高く幹の細い木々が植生の大部分を占めており、先ほどの木立に比べて視界が開けている。

ケイが充分に警戒し続けている限り、獣相手でも遅れを取ることはないはずだ。現に、ケイと同様『視力強化』の紋章を持つミカヅキは問題ないようだが、何の強化も施されていないサスケはかなり歩きにくそうだ。今はケイが手綱を引いて誘導している。

さて……この辺でいいか?

数百メートルほど分け入ったあたりで、ミカヅキの足を止める。周囲を見回しても、視界圏内に生物は見受けられない。ミカヅキも平然としているので、頭上を含めた感知圏内にも、敵対者は存在しないと考えられた。

アイリーン。聴こえてるか?

額に浮き出た汗をぬぐってやりながら、声をかける

где……кто……?

目を閉じたまま、悪夢にうなされているかのようにアイリーンが小さく呟くが、発音が不明瞭な上にロシア語なので何を言っているのかさっぱり分からない。

アイリーンを抱えて、ゆっくりと地面に降り立つ。枯葉と腐植土の上にマントを敷き、そっと華奢な身体を横たえた。

よし。ミカヅキ、サスケ、警戒は任せる

ミカヅキが鼻を鳴らして答え、サスケがキリッとした表情で周囲をきょろきょろと見回し始める。暗闇の中、サスケにはほとんど何も見えていないはずなのだが。

さて、と

水筒の水で軽く手を洗い、アイリーンの傷を検める。黒装束のせいで傷口が見えないので、布地を切り裂くために短剣を取り出そうとするが鞘には何もない。そこで、先ほどの戦闘で短剣はハウンドウルフに道連れにされてしまったことを思い出す。

仕方が無いのでアイリーンの投げナイフを一本拝借し、黒装束の胸元を切り裂いていく。

……ふむ

流石に矢が生えているとなると、いたいけな少女の胸元を覗いても、邪な感情は湧いて出なかった。

……あと二センチ上に刺さってたら、右鎖骨下動脈がやられてたなコレ

肋骨の間にするりと入り込むようにして、矢は刺さっていた。傷口の形状からするに、鏃は『刃』や『返し』が付いたタイプではなく、シンプルな円錐状、ないしそれに近い形であることがわかる。つまり、矢を抜くときに、傷が広がる危険性が低い。

いずれにせよ、一刻も早く傷を塞いでしまいたいところだが、矢を引っこ抜く前に少しでも体力を回復してもらった方が良いだろうと考えたケイは、

アイリーン。聴こえるか? ポーション飲めるかー?

耳元で呼びかけるも、反応は芳しくない。アイリーンは先ほどからずっとうわ言を呟いているのだが、かすれ声な上にどうやらロシア語だった。

仕方がないので、口元にポーションを少しずつ垂らす。が、

……не вкусно……

顔をしかめたアイリーンの唇から、そのほとんどが零れ落ちてしまう。何を言ってるかは分からなかったが、おそらく 不味い と言っているのだろう。いずれにせよ、ずっと意識が混濁した状態が続いており、ろくに意思の疎通も図れていない。

(……いや、しかし考えようによっては、これは好都合(チャンス)なんじゃないか)

そこで、ポーションを片手に、ケイははたと考え直す。

ポーションによる治療は、どうやら多大な苦痛を伴うらしい。手のひらの切り傷を直しただけで、アイリーンは冷や汗だらだらの状態になっていた。それが、胸に突き刺さった矢を抜き、その穴を塞ぐとなると―どれほどの痛みに苛まれるのか想像もしたくない。

……意識が朦朧としてるうちに、さっさと終わらせた方が本人のため、か……?

しばし考えて、決断する。

よし、ひとり頷いたケイは、籠手を外して袖をまくった。念のため、何本か予備のポーションもすぐに使えるよう膝元に置き、ふぅっと息を吐いて矢に手をかける。

…………

ゲーム内ならば、今までに幾度となく矢を抜いてきたが、現実でそれをやるとなると流石に重みが違った。傷口を押さえる左手に、アイリーンの胸の鼓動が伝わってくる。

深呼吸。

行くぞ

覚悟を決め、ケイは傷を広げないよう慎重に、しかし苦痛を軽減するため大胆に、ズヌッと矢を引き抜いた。

ぅうッ……!?

途端、苦痛に顔をしかめたアイリーンが、うめき声とともに身をよじる。傷口から、黒っぽい血が溢れ出してきた。静脈血。動脈は切れていない。

さて、怨むなよアイリーン……

お前のためだからな、と呟きながら、ケイはそっと、ポーションの瓶を傾けた。

とろみのある水色の液体が垂れて、―傷口に触れる。

ッ!!!!

ジュッ、と肉の焼けるような音が響き、アイリーンがかっと目を見開いた。

ぎッ―!!!!

絶叫とともに、跳ね上がるようにして暴れ出した体を、慌てて押さえつけつつポーションを垂らし続ける。ポーションが足りずに、中途半端に傷が塞がってしまうのが、一番避けるべき事態だった。

ぉぁぁ―ッッッッ!!!!

よほどの痛みなのか、小柄な少女とは思えないような馬鹿力で、アイリーンはケイの腕をはねのけようとする。そしておおよそ乙女が上げるものとは思えぬような、獣の咆哮のような絶叫。

すまんッ、アイリーンッ、落ち着けッ許せッ!

アイリーンの胸元、水色のポーションは、まるで意思を持つスライムか何かのように、怪しく蠕動しながら傷口に潜り込んでいった。アイリーンの体の中から、鍋の湯が沸騰するときのそれに似た、ゴポゴポという不気味な音が響いてくる。

やがて、暴れていたアイリーンの体の動きが細かな痙攣に変わり、見開かれた瞳はいつの間にかぐるんと裏返って、完全に白目になっていた。

げほっ、ごぼっ!

時たまアイリーンが咳き込むたびに、口から固まりかけた血液と思しき、赤黒い塊が吐き出される。そしてそれがあらかた出終わった後は、ポーションが揮発したのだろうか、口と鼻から蒸気とも湯気とも知らぬ気体がもくもくと立ち上り始めた。

……ぁっ……ぅ……

最後に、体の痙攣が収まってきたあたりで、口からぶくぶくと泡を吹き始める。ポーションと同じ、うっすらとした水色の泡。

………………

あまりにも壮絶なありさまに、呼吸をするのも忘れてドン引きしていたケイだが、すぐにハッと気を取り直し、慌ててアイリーンの脈を取る。

……良かった。生きてる……