つまり、毒を受けた本人が、症状を自己申告できたわけだ。
体が重くて動かないならば “隷属(スレイヴリ)”。視野狭窄が生じれば”単色(モノクローム)”。そして、自己申告できない、すなわち会話が不可能な状態に陥っていれば、“夢魔(インクブス)“といった風に―。
それで充分だった。あとは周囲の者が、対応する特効薬を与えてやればよかった。
しかし、今。
アイリーンの意識は、混濁したまま戻らない。
本人に、どのような毒の症状が表れているのか、確認することが、出来ない。
……個人的には、意識を失ってるから、“夢魔”系統が怪しいんじゃないかと思う
ぽつぽつと、ケイは静かに言葉を続ける。
しかし断言もできない。“隷属”系統も身体感覚を鈍らせる以上、それが重症化して意識が混濁しているという可能性もある
“単色”系統を除いたところで、確率は2分の1。
……どうすればいいんだ
ケイの呟きに、しかし部屋の面々は沈黙したままだった。
数分か、あるいは数十秒か―再び顔色が悪化しつつあったアイリーンに、手持ちのポーションを全て飲ませたケイは、すっと立ち上がった。
ちょっと待っててくれ
お、おい……
クローネンの制止も聞かず、小走りでベネットの家に戻る。
玄関口、杭につながれていたミカヅキが、 ぶるるっ と鼻を鳴らしてケイを出迎えた。
……大変なことになった。本当に間抜けだな……毒かもしれないなんて、少し考えれば分かったろうに……
はぁ、と重いため息をつくケイ。サスケが だいじょうぶ? と心配げに、顔を覗き込んでくる。
……大丈夫。アイリーンは助けるさ
サスケの鼻づらを優しく撫でてやり、ケイはぎこちなく微笑んだ。鞍に取りつけてあった革袋を取り外して、再びアイリーンの元へと戻る。
……お若い方よ。どうなさるおつもりか
ゆらゆらと揺れるランプの光。枕元でアイリーンの汗をぬぐっていたアンカが、悲痛な声で尋ねてきた。
婆さん。少し頼みがある
……ワシにできることなら、何なりと
こ(・)れ(・)をアイリーンに。顔色が悪くなるたびに、飲ませてやってくれ
革袋を、アンカの足元の床に、そっと置く。
怪訝な顔で袋を開き、中を覗き見たアンカが―、はっと息を呑んだ。
十数本にも及ぶ、ハイポーションの瓶。
そして、これだ
ポシェットから取り出したのは、金属製の小さなケース。それからそれぞれ色の違う丸薬を数粒つまんで、そっとアンカに手渡した。
……俺(・)が(・)戻(・)ら(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)ら(・)、どれか一つを、アイリーンに飲ませてやってくれ
ケイの言葉に、全員が目を剥いた。
ケイ殿!?
お若いの、まさか!
ケイは小さく笑う。
分からないんだったら……使った奴に聞くのが、一番早い
頼んだ、と言い残して。
背後からの声には耳を貸さずに、ケイは足早に部屋を出た。
†††
お、おい、ケイ!!
ベネットの家の前、ミカヅキの手綱を引いていくケイを、クローネンが呼びとめる。
無茶だ! いくら装備が良いからって!
ケイは答えず、ひらりとミカヅキに飛び乗った。
……随分と騒がしいが
ぬっ、と建物の陰から、マンデルが姿を現す。
ケイ。……相手は、十人近いんじゃなかったのか
そうだな、大体そのくらいだろう
だから無茶だ! 一人でそんな人数相手に、勝てるわけがない! しかも聞いたぞ、賊はあのイグナーツ盗賊団なんだろ!?
槍を振り上げて、クローネンが叫ぶ。
じゃあ、何だ。ついてきてくれるか?
えっ。それは……
ケイのからかい混じりの返しに、短槍使いの男はぐっと声を詰まらせた。
冗談さ。俺一人で十分だ。こちらは騎兵、向こうは数が多いとはいえ所詮は徒歩……弓のいい練習になるよ
楽観的に言ってのけるケイ、しかしクローネンとマンデルは顔を曇らせる。
しかし、こんな新月の夜に……
眉をひそめたクローネンは、思わず空を振り仰いだ。夜の真の暗さの前には、星明かりすら闇に呑まれるかのようだ。こんなに暗闇の中、単騎で駆けるなど自殺行為以外の何物でもない。
―少なくとも、クローネンにとっては。
しかしケイは笑って見せる。
だから、心配しなくても大丈夫だ。ほら、
無造作に矢筒から矢を引き抜き、一切のた(・)め(・)も気迫も感じさせずに、すっと空へ向けて弓を引き絞った。
快音。
ギィッ、と鋭い鳴き声が頭上から聴こえてきたかと思うと、ぼとりと黒い塊が地面に落ちる。
―それは、矢に射抜かれた、一羽の蝙蝠だった。
…………
胴体を貫かれ、ばたばたともがき苦しむ蝙蝠。クローネンとマンデルは顎が外れんばかりにぽかんと口をあけて、絶句した。
言ったろう? 夜目は効く方なんだ
馬上から、蝙蝠の矢を引き抜き回収したケイは、にやりと口の端を釣り上げる。
……それじゃあ、行ってくる
唖然としたままの二人をおいて、ケイはミカヅキの横腹を軽く蹴った。
いななきの声ひとつ漏らさずに、滑るようにして褐色の馬は走り出す。
その馬上で揺られながら、ケイは顔布で口元を覆い隠し、今一度その左手に朱塗の弓を握り直した。
……急ぐぞ。頼んだ、ミカヅキ
主の声に、忠実なる駿馬は短く鼻を鳴らして応える。
果たして、新月の宵闇に。
―死神は、放たれた。
9. 会敵
火の中で小枝が爆ぜて、ぱちりと音を立てる。
木立の中、焚き火を囲み、男たちは思い思いの格好で身体を休めていた。
火に当たり暖を取る者、地面にマントを敷き寝転がる者、堅焼きのビスケットをかじる者、壁に寄りかかり周囲を見張る者―。
盗賊団『イグナーツ』の構成員たちだ。肌の色も髪の色も、体格も民族も、てんでばらばらな寄せ集めの集団。しかし、全員が黒染めの革鎧に身を包み、『片方の瞳が白く濁っている』という点で不気味に似通っていた。
風のそよぐ、肌寒い新月の夜。盗賊たちは見張りの一名を除き、程よく肩の力を抜いてリラックスしている。だが同時に、その表情にはどこか覇気がなく、皆、ぼんやりと眠たげな様子だった。
それは、―悪く言えば、シ(・)ケ(・)た(・)面というやつだ。
はぁ~あ
焚き火の前、平石の上に腰かけた痩せぎすな男が、大きな溜息をつく。
陰気な男だ。シケた面をした盗賊たちの中でも、際立って暗い雰囲気を漂わせている。
栄養状態がよろしくないのか、はたまた、元からそういう骨格なのか。痩せこけた頬に落ち窪んだ眼窩と、まるで髑髏のような顔立ち。薄暗い焚き火の明かりが投じる陰影に、伸ばしっ放しのぼさぼさな長髪も相まって、その姿はまるで幽鬼か何かのようだ。