ブウゥゥン……と蜂の羽音に似た、振動音。生木に深く深く突き刺さった矢が、凄まじい着弾の衝撃に震えている。生身で受ければひとたまりもない―それは手下たちが証明してしまった。生半可な盾や鎧では紙のように食い破られてしまうだろう。
……モリセット、これは、マズい相手だぞぅ
ラトが低い声でぼそりと呟き、腰の鞘から短剣を抜き放つ。取り回しに優れた、良質のショートソード―しかし敵の弓の威力に比するとあまりにも頼りなさげだ。
とんでもない弓、だなぁ……
ああ。だが……
ラトの声に頷きつつ、未だ震える矢を睨みつけるモリセット。その額をつっと冷たい汗が伝った。とんでもない弓。確かにその通りだ。化け物じみた威力に、神がかった狙撃の精度。自身もいっぱしの弓使いであるだけに、それはよく分かる。
だが、何よりもモリセットが危機感を覚えているのは、
(殺気が微塵も感じられねえ……!)
これほどの威力を持つ弓であるにも関わらず、確実に命を奪い去る殺意に満ちた一撃であるにも関わらず。
感知できないのだ。その攻撃が。これの意味するところは―敵は、モリセットの技量を遥かに凌駕する使い手であるということ。
おかげでこの矢が何処から射られたものなのか、大まかな方向しか見当がつかない。弓の音と、着弾までの時間差から、かなり距離が置かれていることだけは確かだ。しかしその距離をものともせずに、確実に中ててくる技量。
ラト。何か感じ取れたか
いんや。その様子だと、モリセットもダメかぁ?
ああ
とんでもない化け物だなぁ
違いねえ。何者だ? 盗賊か?
引きつった笑みを浮かべるモリセットに、間延びした声を努めて維持するラトは、
分からね。……だども、相手は一人だと思うぞぅ
自信なさげなラトの推測は、そうであって欲しいという、ある種消極的な願望も多分に含んでいた。だが、それはおそらく正解だろうと、モリセットの勘が告げる。
(クソッ、俺らを襲っても盗る物なんてロクにねえぞ……!?)
しかもムサい男所帯だ。これほどの弓の腕前の持ち主なら、盗賊などしなくても充分に食っていけるはず。なんでわざわざ自分たちなんかを―
腹立ち混じりにそう考えていたモリセットだったが、そのときふと、木に突き刺さったままの矢に目を止めた。一点の汚れもない、白羽の矢。
(……待てよ、最初にネイハムを殺(や)ったのは、たしか黒羽の矢だったはず)
腰の剣を抜き、そっと壁の陰から突き出す。よく手入れしてある刃は、鏡のように周囲の景色を映し出した。襲撃者の矢に倒れた手下たちを見やると、その身体に突き立っているのもまた白羽の矢。
(黒い矢羽……)
モリセットの視線が、自然と、自分の矢筒に吸い寄せられる。
ぎっしりと詰まった、黒羽の矢束。
……まさか
たらり、と額を嫌な汗が流れる。
一本だけの黒羽の矢。
草原の民が得意とする、弓という得物。
モリセットを凌ぐ高い技量に、今宵この場所で襲撃してきたという事実。
それらの要素が絡まりあい、一つの推論へと収束していく。
あの野郎……ッ!
草原の民の格好をした青年。
成る程、『彼』ならば、モリセットたちを襲う理由は、充分すぎるほどにある―
(仇討ちに戻ってきやがったのかッ!)
―襲う相手を、間違えた。
苦虫を潰したような顔で、モリセットは天を振り仰いだ。
だが、いつまでも悔やんでいる暇はなかった。自分ひとりならまだしも、モリセットは手下たちの五人の命を預かる隊長だ。ここに隠れていたところで、壁は二面しかない。側面に迂回するぐらいのことは、子供でも思いつく。
(遮蔽物―林の方に逃げるしかねえな)
南の森は、矢を防ぐには絶好の場所かもしれないが、夜に踏み込むには木々が生い茂りすぎている。東西に広がる木立の方が、人の身には歩きやすいだろう。ではそのどちらへ逃げるか、とモリセットが考えを巡らせたところで、再び夜空に快音が響き渡った。
回り込まれたか、と肝を冷やしたが、自分たちに矢が飛んでくることはなく、ボフンッという音と共に焚き火の明かりが吹き飛ばされる。火勢が弱まり、暗闇が下りてきた。
(……矢で焚き火を吹き飛ばした?)
なぜ、と考えながらも、目を瞬いて暗闇に適応しようと試みる。そして不意に、『奴』も夜目が効く様子だったと思い当たり、モリセットはおぼろげに敵の考えを読み取った。
パヴエル、点眼しとけ。奴が仕掛けてくるぞ
はっ、はい
モリセットの言葉に、パヴエルが慌てた様子で懐を探る。取り出したのは、小さな金属製の容器。ふたを開け、白い液体を一滴、左目に垂らした。その薄く白濁した瞳に液体が触れた瞬間、パヴエルは うっ と苦しげな声を洩らす。液体は、とある猛毒を改良して作られた目薬で、点眼し続ければ色の見分けがつかなくなる代わりに、フクロウのように夜目が効くようになる。モリセットを含め隊の全員は、これを片目に点眼していた。
おい、煙玉持ってる奴いるか?
二個あるっす
オレも二個持ってます
一個だけなら……
続いたモリセットの問いかけに、口々に手下たちが答える。
よし。すぐにでも奴は迂回してくるはずだ。ちっとでも怪しい音がしたら、順番にばら撒きながら反対側に逃げるぞ
敵意を剥き出しに、唸るようにしてモリセット。
クソッお陰でとんでもねえ散財だ! あの野郎、絶対ブッ殺してやる……ッ
腰のポーチから取り出した、直径五センチほどの球体に目を落とし、モリセットは鬱々と呪詛の言葉を吐く。
と、その瞬間、モリセットたちから見て東の茂みが、ガサガサと派手に音を立てる。それに混ざって聴こえる蹄の音―
来たぞッ東だ、最初は俺が撒く! お前たちは走れ!
球体についていた紐を引っ張り、投げる。
これでも食らいやがれッ
煙玉(スモーク)。地面に叩きつけられたそれは、勢いよく灰色の煙を噴き出した。続いて手下たちが一つずつ投じ、廃墟の周辺はあっという間に濃い煙に包まれる。
視界を遮るよう手際よく煙玉を投げながら、モリセットたちは西に向かって一目散に逃げ始めた。
ワンテンポ遅れて、煙の尾を引くケイとミカヅキが、咳き込みながら煙幕の中から飛び出てくる。
ゲホッゴホッなんだこれッ!?
顔の前で手を振って煙を振り払いながら、慌てた様子でケイ。少なくともゲーム内にはこんな形の煙幕は存在しなかった。幸いなことに、煙に毒の成分は含まれてないらしい。
木立の奥、未だ濃く立ち込める灰色の煙を睨む。
…………
顔布の下の険しい表情。
先ほど、『襲撃者はケイである』という正しい推測をしたモリセットであったが、一つだけ大きな勘違いをしていた。