(……何も、感知できなかった)
口の中がからからに乾いていた。モリセットの額からたらりと汗が滴り落ちる。
目と鼻の先に射手がいるにも関わらず。
風圧を感じるほどの至近距離であったにも関わらず。何も、感じられなかった。
これはひょっとすると、夢か幻ではないかと。そんな、現実感をも殺すほどの凄まじい一撃。
かろうじて理解できたのは、この青年がマントの下に弓を構え、視覚的にも射線の予測を出来なくした上で、またたく間に殺気のない矢を二連射してみせたということだ。
(なんて野郎だ……!)
そんなまるで曲芸のようなことを、実戦で事も無げに実行してみせた。とんでもない奴に手を出してしまった、と嘆くことも後悔することも、今のモリセットには許されない。粘り気すら感じる冷たい空気の中で、弓を握る手に力を込める。
(こいつに弓を使わせたら不味い)
あの乾いた音が鳴り響くたびに、手下が一人また一人と倒れていく。
そして―その『次』が、自分でない保証など。
ッ殺せェ―!!
自身の怯えを振り払うかのように、モリセットは腹の底から雄叫びを上げた。と同時に、新たに矢をつがえ、放つ。
おおよそモリセットがその痩身から発したとは思えぬ大音量に、硬直していた手下たちもハッと我に返る。慌てて剣を構え突撃する剣士、それに合わせて併走する短槍使い。
飛来した矢を事も無げに右手で払い落とし、冷めた目で 竜鱗通し を構えるケイ。前方の盗賊のうち次の標的を見定めようとするが、
(……待てよ)
ふとした違和感。目の前の盗賊たちを数えた。
弓使いが三人。短槍使いが一人。剣士が一人。
(―もう一人は、何処にいる?)
生き残りは、全部で六人いたはず―
ぴりっ、と背筋に微かな悪寒が走る。
上だ。樹上を見やれば、視界に大写しになる銀色に輝く刃、小柄な人影―
くぅッ!?
バク転をするように背後に向かって飛ぶケイ、その顔面に鋼の刃が襲い掛かった。裂かれる顔布、左の頬をびりびりと冷たいような熱いような感覚が走る。地に身を投げ出し、距離を取るためにごろごろと転がったが、襲撃者はその隙を逃がさない。
死ねッ!
それは、ショートソードを構えた小太りな男だった。体格に見合わぬ俊敏さで、あっという間に間合いを詰める。
短剣使いのラト。その見かけによらず身軽さと隠密技術を兼ね備え、奇襲・撹乱を得意とするモリセット隊随一のアタッカーだ。ケイが決定的な隙を見せるまで樹上で息を潜めていたが、満を持して牙を剥く。
突撃するラト、ぎらりと輝く凶刃。ケイの弓を封じるため、近接戦闘を挑む構えか。
その狙い通り、弓での迎撃は間に合わない―左手で 竜鱗通し を握り締めたまま、ケイは右手で腰のサーベルを抜き放つ。
シッ!
鋭い呼気と共にラトが刺突を繰り出した。対するケイは無言のまま、横殴りの一撃をその刃先に叩きつける。
ギィィンと甲高い音、暗い木立が火花の色に染まった。豪快に短剣が弾かれ、ケイの膂力に目を見開くラト。しかしそのまま驚きに囚われることなく、左手で黒塗りのナイフを引き抜き、ケイに向かって突き出した。
―踏み込みが浅い。まるで苦し紛れの一撃だ。身を引いて至近距離からのナイフを悠々と回避するケイ、だがその瞬間にラトはにやりと笑った。
キンッ、と金属音。肌を刺すような危機感。
ケイが反応するより早く、ナイフに仕込まれたバネが、勢いよく刃を射出する。
(弾道ナイフ?!)
何とか身体を傾け、あわやというところで直撃は避けた。首の皮が切り裂かれて焼け付くような痛みが走る。体勢が崩れたケイに、追い討ちを仕掛けるラト。ケイのサーベルの牽制を紙一重でかわし、容赦なくショートソードを振るう。
ぐうぅッ!
ケイの口から苦痛の声が漏れる。左肩の革鎧の隙間に刃がねじ込まれた。肉が抉られ、強烈な痛みに思わず弓を取り落とす。
力任せに体当たりを仕掛け、何とかラトを弾き飛ばしたものの、その背後からは長剣を振り上げた剣士と短槍使いが迫る。
これは―、まずい。自由の利かぬ左腕。素早く立ち上がった目の前の短剣使い(ラト)、その背後の短槍使いは槍ごと突進してくる構えだ。そして横の剣士の突撃も充分に勢いが乗り、一人離れた弓使い(モリセット)も虎視眈々とこちらを狙っている。
おそらく全員でタイミングを合わせて攻撃してくるだろう。特に脅威的なのは目の前の短剣使いと、距離を置いた弓使い。いずれかを迎撃すれば、他の攻撃をまともに喰らう羽目になる。さらに逃げを打つか―いやそれもまずい。立て直しがきかないままではいずれにせよジリ貧に―
ゆっくりと流れる時間の中、ケイは選択を迫られる。どの攻撃を受けるか、あるいは、いなすのか。
ぶるるぅォ!!
だがここで、倒れていたミカヅキが一石を投じる。口から血の泡を噴きながらも最期の力を振り絞り、半身を起こしてケイと対峙するラトに後ろ足を向けた。
それにラトが気付くのと、強烈な蹴りが放たれるのが同時。
ぶぅんと不気味な唸りを上げた蹄が、ラトの顔を直撃した。
ぼぐゥッ
おおよそ人の声とは思えぬくぐもった音を立てて、ラトの顔面が崩壊する。赤黒い血と肉片をばら撒きながら、小太りな身体が吹き飛んでいった。きりもみしながら、頭からぐしゃりと地面に落ちる―バウンドし、激しく痙攣を繰り返す肉体。
ラトぉッ!
こいつっ、よくもッ!
額に青筋を浮かべたモリセットが、ミカヅキに向かって矢を放つ。胴体に黒羽の矢が突き立ち、断末魔の悲鳴を上げたミカヅキは、今度こそ力尽きたようにどうと倒れた。
ケイの頭に、かぁっと血が上る。
貴様ァッ!
憤怒の形相。左頬を切り裂かれ血に塗れたケイの顔は、地獄の悪鬼が如き様相を呈している。だが、その姿は同時に満身創痍。どくどくと血を流す左腕はだらりと垂れ、得物は右手に握り締めるサーベルのみ。圧倒的に自分らが優勢であると知るモリセットたちは、ケイの気迫にも怯える様子を見せなかった。
ハッハハ、悔しいか! 嬲り殺しにしてやるッ!
残忍な笑みを浮かべて弓を引き絞るモリセット。短槍使いと剣士もまた、引きつったような笑みを浮かべている。
対するケイは、―逃げた。
くるりと踵を返し、モリセットの狙いを惑わすように、木々の陰に隠れながら走る。
ッ待ちやがれ!
慌てて追いかける剣士と短槍使い。
モリセットはひとり冷静に、その場から矢を放つ。
音と殺気で攻撃を察知し、小刻みに動いて矢を回避。ケイはモリセットを中心にして、円を描くように走った。その間にサーベルを口に咥え、右手で腰のポーチを探る。