取り出したのは、ひとつのガラス瓶だ。
その中でとぷんと揺れる、青色の液体―使いかけの高等魔法薬(ハイポーション)。
半分しか残っていないが、肩の傷を治療するには、これだけでも充分すぎるはずだ。瓶のコルクを親指で外す。
地面に目を走らせ、目当てのものを見つけた。
そちらに向かって走りながら、何度か深呼吸を繰り返し、覚悟を決めたケイは肩の傷にポーションをぶちまける。
その瞬間、視界が真っ白に染まった。
『―痛えええええええええええぇぇぇええェェェェッッッッ!!!!!』
日本語。絶叫。
腹の底から絞り出したような、空気がびりびりと震える大音量。
ひとり叫ぶケイの右肩から、白い湯気のようなものが凄まじい勢いで立ち昇った。
激痛。
最早、そんな言葉では生ぬるい。
まるで肩の傷に塩を擦りこまれ、細胞をぷちぷちと針で潰されていくかのような。
やすりで肉を抉り、磨り潰され、熱した火箸で神経を引きずり出されるかのような。
今は怒りも憎しみも焦りも、全てが遥か彼方に吹き飛んでいた。吼える。目の前が白くなるような、痛覚の奔流。
ぐッうおおおおおおおおおおおおオオオオオオォォァァァァァァァァッッッッッ!
驚いたのはモリセットたちだ。追いかけていた満身創痍の青年がいきなり絶叫したかと思うと、肩から得体の知れない気体を噴き上げて猛烈に苦しみ始めたのだ。
ジュウウゥッ、と焼けた鉄を水に突っ込んだような音と共に、迸る涙をぬぐいもせずに慟哭する。口に咥えていたサーベルが地に落ちてカランと音を立てた。その肩から立ち昇る湯気のようなものが何なのか、理解の追いつかないモリセットたちは呆気に取られる。あるいは、彼らの目がケイ並みに良ければ、肩の傷口が真新しい白い皮膚に覆われていく様を見て取れたかもしれないが。
ぜえ、ぜえと。
……貴様ら、
肩で息をするケイは、ぎろりと目の前の盗賊たちを睨みつける。涙に濡れ、血走った両眼、開かれた瞳孔にモリセットの顔が映り込む。
―まとめてブッ殺すッ!
痛みを全て怒りに転化し、八つ当たりのように宣言。
乱暴にサーベルを拾い上げ、大地を蹴る。
停滞していた戦いの火蓋が、再び、切られた。
11. 対価
一瞬の間隙、そして突然の戦闘再開。
先に我に返ったのは短槍使いの男だ。腰だめに槍を構えて、迎撃の態勢を整える。
対するケイは右手にサーベルを構え、弓使い(モリセット)の存在を意識しつつも、剣士と短槍使いの間で視線を彷徨わせた。
そして、その黒い瞳が、すっと剣士に照準を合わせる。
たなびくマントの影、キンッ、と澄んだ音を立て、左手の指でポーションの瓶を弾く。剣士の顔を目掛けて、ガラス瓶がきれいな放物線を描いた。
それは投擲ですらない、ただ指で弾き飛ばしただけの攻撃。速度も殺気も威力も中途半端、だが中途半端であるが故に注意を引き付ける。
!
反射的に動いた剣士の長剣が、瓶を空中で叩き落とした。
破砕。
割り砕かれた瓶が細かな破片を飛び散らせ、その幾つかが剣士の顔に振りかかる。目には入らなかったが鋭利な破片が顔を切り裂き、剣士は うおッ と声を上げて一瞬たたらを踏んだ。
死ねやゴラァッ!
それをよそに、短槍使いの男が槍を繰り出す。弓を持たぬケイであれば、自分一人でも何とかなると思ったのか。あるいはケイの剣の腕は、短剣使い(ラト)にいいようにしてやられる程度で、それほど脅威ではないと軽んじたのか。
実際のところ、それはあながち的外れでもない。ラトには不意を突かれたとはいえ、事実としてケイは剣を苦手としている。
―弓(・)に(・)比(・)べ(・)れ(・)ば(・)。
うおおおッッ!
鋭い槍の一突き。短槍使いを睨みつけたケイは、横殴りのサーベルをもってそれの返答とした。サーベルの刃が短槍の柄を叩き、けたたましい金(・)属(・)音(・)が鳴り響く。柄を砕き折る勢いでサーベルを振るったにも関わらず、まるで傷一つ付かない短槍。
金属製。短槍使いの得物は、刃から柄に至るまで、その全てが合金で構成されていた。普通の槍に比べればかなり重量があるはずだが、木製に見せかけた塗装と、軽々と扱う短槍使いの技量が、その材質をケイにそれと悟らせなかったのだ。
眉をひそめるケイに動揺を見て取ったのか、にやりと口の端に笑みを浮かべた短槍使いは強引に槍を振るう。サーベルに弾かれて僅かに狂った軌道を腕力で修正し、穂先をケイに向かって勢いよく突き込んだ。
力押し。腕力に自信があるが故の選択。
しかし次の瞬間、それが悪手であったことを悟る。咄嗟にサーベルの刃の背に左手を添えたケイが、短槍使いを遥かに上回る膂力をもって、力比べを挑んできたからだ。
―おおおおぉぉッ!?
尋常でないケイの腕力を感じ取り、短槍使いはサーベルを撥ね退けようと全身全霊で力を込める。
しかし、押せない。
びくともしない。
むしろ槍の構えを無理やり押し広げられている。ただ槍にサーベルを添えられただけにも関わらず、ケイと短槍使いの攻防は一瞬で逆転していた。
がりがりと音を立てて、火花を散らすサーベルが槍の柄の上を滑走する。迫る鋼の刃。短槍使いが身を引くよりも早く、力任せに槍の防御を押しのけたケイが神速で懐へと踏み込んだ。
剣の間合い。レールのように槍の柄を奔ったサーベルが、短槍使いの手元へと辿り着き、当然のようにその指を切り飛ばす。
しかし刃は止まらない。指が地に落ちるよりも速く、サーベルが短槍使いの足の間に割って入る。鋼の凶器が男の内股を薙ぎ、左大腿動脈が切り裂かれ赤い血潮が噴き出した。
だがそれでも尚、無慈悲な剣舞は止まらない。ようやくケイの速さに知覚が追いついた短槍使いが、悲鳴を上げようと口を開く。だがその声が絞り出されるよりも先に、跳ね上がった刃が返す刀で首筋を撫でた。頸動脈を裂く、致命の一撃。
ごぽりと喉から湿った音を立てながら、血飛沫を撒き散らす短槍使い。力なく地に倒れ伏す彼に、しかし目もくれることもなくケイは半身を翻す。
真っ直ぐにサーベルを突き出した受けの構え。我流ではなく、明らかに修練を積んだと分かる滑らかな動き。
一瞬の間に、ケイはもう一人の剣士に対する防御態勢を整えていた。
ふッ……ざけるなァァァッ!
長剣を掲げて打ちかかりながら、突き動かされるようにして剣士の男は叫ぶ。
今しがた斬り捨てられた男は、隊でも随一の力自慢だった。合金製の槍を軽々と扱う膂力、そして長時間戦えるスタミナを兼ね揃えた、自他共に認める槍使いだった。