見る見るうちに亀裂は数を増やし、緑から白へと色が変わっていくエメラルド。
やがて、パキンと砕け散ったそれは、砂よりも細かな粒子へと姿を変え、吹き抜けた風に誘われて夜闇の中に溶け去って行く。
それを見届けたケイは、虚空に向かって、その名を呼んだ。
Maiden vento, Siv.
すう、と呼吸を整えて、
Vi aperos(顕現せよ).
瞬間、ケイは身体の中からごっそりと、何か大切なものが奪い去られるのを感じた。
†††
ヴィエスタ、グランダ、ヴィサニジ、テュペロソーノ……
ランプの炎が揺れる、薄暗い部屋の中。
ヴィエスタ、グランダ、ヴィサニジ、テュペロソーノ……
しわがれた老女の声が、単調に文言を紡ぐ。
タアフの村、クローネン宅の一室。
小さな寝台の上に、熱に侵され未だ意識の戻らぬアイリーンが寝かされていた。そして寝台を囲むように、村人が四人。彼らはケイが出て行ったあとから、まんじりともせずに、その帰りを待ち続けていた。
一人は、寝台の近くに椅子を置き、発熱でうなされるアイリーンの世話を焼く、村一番の高齢者にして呪い師・アンカだ。
彼女は先ほどからずっと、村に伝わる治癒の文言を唱えながら、水で濡らした布でアイリーンの額に浮いた汗を丁寧に拭っていた。時折、急激に顔色の悪くなるアイリーンに、ケイから預けられたポーションを少しだけ服用させるのも、彼女の役割だ。
……アンカ婆さん、大丈夫か。もう夜も遅いし、なんだったら俺が代わるが
そんなアンカに、遠慮がちに声をかけたのは、壁際に控えていた村長の次男・クローネンだ。
いんや。この程度、どうってことないさね。心配しなさんな
アンカのゆっくりとした言葉に、 そうか、 と引き下がったクローネンは、どこか残念そうにすら見える。
元々、アイリーンの看病というよりはむしろ、彼女が盗賊団の一味であることを考慮して『見張り』の役割を与えられていたクローネンだったが、盗賊の仲間どころかアイリーンが本当に毒で死にかけていると知ったあとはひどく同情的で、今は自分から積極的にアイリーンの世話をしようとしていた。
自分が、自分こそがケイからアイリーンの世話を仰せつかったのだ、と使命感に燃えるアンカに、やんわりと助力を断られ続けられているが。
…………
アイリーンを心配する二人組をよそに、壁に寄りかかるようにして、ぼんやりと虚空を眺めているのは、特徴的な濃い顔立ちをした猟師・マンデルだ。
相変わらず彫の深い顔立ちのせいで、黙っていると何を考えているのか傍目にはよく分からない。ただ、今の彼は、ポーションのおかげで何とか命を繋いでいるアイリーンよりはむしろ、盗賊への戦闘に飛び出していったケイのことを心配していた。
あの、暗闇の中で蝙蝠を撃ち抜いて見せた弓の腕があれば、滅多なこともあるまいとは思いつつも、それでもやはり落ち着かない気分だった。そしてそれを考えて、連想するのはケイの持つ見事な朱塗りの弓だ。
あの矢を放つ際の音からして、かなり張りの強い弓であるはず。ケイが帰ってきたら触らせて貰えないだろうか、などと思考が若干呑気な方向に逸れていく。
そしてそんなことを考えているうちに、再びケイの安否が気になり、心配しては弓のことを考え……という思考のループを、マンデルは延々と繰り返していた。
……はぁ
部屋の隅、小さな溜息が響く。他の三人とは少し距離を取り、椅子に座って腕を組んだまま憮然とアイリーンを眺めているのは、村長のベネットだ。
(惜しい……)
アンカが、残り少なくなってきたポーションをアイリーンに飲ませるたびに、苦虫を噛み潰したような顔をする。
ベネットの気持ちを一言で表すならば、『勿体ない』だ。
致死の毒に侵され、死にかけている小娘を延命させるためだけに、目の前で極めて貴重な高等魔法薬(ハイポーション)が浪費されていく。これがあれば、タアフの村だけではなく、近隣の村も含めて毎年どれだけの子供が病や怪我で死なずに済むか、ベネットには考えるだに口惜しかった。
ケイは盗賊たちから毒の種類を聞き出し戻ってくる、とは言っていたが、それは流石に無理だろうというのが、ベネットの考えだ。
人数差の問題もあるが、そもそも悪名高い”イグナーツ盗賊団”を相手にしているのがまずい。ここ数年は大人しくしているようだが、一時期は”イグナーツ”の名を聞くだけでも歴戦の傭兵たちが尻ごみするほどに凶悪な武装集団だったのだ。
ケイは質の良い馬を持っているので、あるいは逃げ帰ることくらいはできるかもしれないが、仮に話を聞くために戦闘に陥ったならば、ケイは生きて帰って来ないだろうとベネットは予測している。
そこにきて、余所者の小娘のためだけにポーションを浪費―。
(口惜しい……)
ぎり、と歯噛みしながら、ひとり嘆く。
実は先ほど、ベネットは他三人に、アイリーンにポーションを飲ませるのをやめよう、と提案していた。あえて回復させずに毒で死なせてしまい、ケイが帰ってきた場合は ポーションを使い果たしてしまったので、治療しようがなく死んでしまった と説明しつつ、実際には何本かのポーションをネコババしてしまってはどうか、と。
しかしこれは、三人全員に止められた。
あのお方は必ず帰ってくる! と根拠なしに言い張るのがアンカ。
それは流石に酷い、と人が良すぎることをぬかすのが、クローネン。
そして、 俺じゃアイツ相手に嘘をついてバレない自信がない といって加担することを拒んだマンデル。
三者三様ではあったが、あのマンデルをして、かなり強硬な態度で反対されてしまったので、ベネットも渋々引き下がったのだが。
(それにしても、のう)
惜しい。あまりに惜しい、と。
アイリーンにポーションを飲ませるアンカの後ろ姿を見ながら。ベネットの表情がさらに渋くなる。
(……まぁ、仕方がないのかのぅ)
はぁ、と今一度、小さく溜息をつこうとした―その瞬間。
びゅごう、と。
家の外で、風が吹いた。
……?
ただ、風が吹いただけ、のはずだったのだが。
何か違和感を感じたベネットは、羊皮紙で塞がれた窓に、すっと視線をやる。
ぱさ、ぱさ、と。
不自然に、窓の羊皮紙が動く。
なにか―冷たい空気が。
突如、ごうっと音を立てて、部屋の中に一瞬だけ突風が吹き荒れた。
うおっ!?
なんじゃ!
それぞれ、驚きの言葉を口に。部屋にまで不自然に入(・)っ(・)て(・)き(・)た(・)強い風に、部屋の中を照らしていたランプの火が、全て吹き消された。
真っ暗になった部屋の中―何も見えない。