はずが。
その暗闇の向こう側に、ベネットは、そして部屋に待機する一同は。
ひとりの、羽衣をまとった、あどけない雰囲気の少女の姿を幻視した。
うおおおッ!?
なんだお前は!!
動揺して素っ頓狂な声を上げる男性陣。が、それに対してアンカだけは、
せっ、精霊様じゃああああああぁぁ!!
無邪気な笑みを浮かべる少女の姿に、テンション爆上げで絶叫する。
精霊!? これが……?
まるで幽霊か化け物のようだ。『そこにいる』はずなのに上手く知覚できない、存在そのものが希薄に感じられる『何か』の出現に、神聖さよりもむしろ不気味さを感じてしまったベネットは思わず疑わしげな声を出す。
そんなベネットたちの姿に、くすり、と口元をほころばせた少女は、
― En la nomo de miaj abonantoj, mi transdonu lian mesagxon ―
あどけない雰囲気には不釣り合いなほど、艶やかな声で一同に告げた。
おお、ありがたやありがたや……
婆様、何を言っているのか、分かるのかっ?
羽衣の少女が何を言ったのか全く理解できなかったベネットは、両膝を床に突き手を擦り合わせて有難がり始めたアンカに勢い込んで尋ねるも、
分かるわけないさね、精霊語だよこれは!
気の抜けそうな返答に、ずりっと椅子から滑り落ちそうになった。
分からんのに、ありがたがっとるのか!
このような美しい精霊様がおっしゃることぞ、ありがたいお言葉に違いないさね!
そんな馬鹿な、と思わず呆れたベネットが、さらに言葉を続けようとしたとき、
『―聞こえるか? ケイだ、アンカの婆さん、聞こえるか』
部屋の中に、『ケイ』の声が響き渡った。
―ケイ! ケイなのか!?
目を見開いたマンデルが、大きな声で問う。
『―時間がないので手短に言う。俺の契約精霊に、声を運んで貰うことにした。毒の系統は”隷属”で、特効薬は赤色の丸薬だ。アンカの婆さん、特効薬は、赤色の丸薬だ。一粒でいいから飲ませてやってくれ、頼んだ』
ケイ、今お前はどうしてるんだ! どこにいる!?
マンデルが少女に向かって問いかけるも、少女も、ケイも、何も答えない。
― Jen cio ―
ただ、それだけ、短く告げた少女は。
ごうっ、と部屋の中に再び風を巻き起こし。
次の瞬間には幻のように消えていた。
…………
呆気に取られて、しばし、部屋の中が沈黙に包まれる。
……赤色の丸薬!
最初に我に返ったのは、やはりというべきか、アンカであった。
クローネン! 火じゃ! 明かりを!
あっ、ああ、わかった!
アンカに命じられたクローネンが、どたどたと慌てて部屋を出ていき、すぐに外から火種を取って戻ってきた。
ランプに火を灯し、光源を確保。
アンカは懐を探って、ケイから預かっていた丸薬を取り出す。
―そして、あった。確かにあった。
赤色の、丸薬。
お連れの方を、今お助けしますぞ……!
震える手で、それをつまみあげたアンカは、アイリーンの唇を開き、少量の水とともに飲み込ませる。
果たして―アイリーンは。
†††
数十分後、タアフの村に、汗まみれになった一人の男が走って戻ってきた。
ケイだ。
脳筋戦士(ピュアファイター)の分際で魔術を行使したせいで、魔力の反動で危うく死にかけたケイだが、その直後に無理を押し通して数キロの道のりを全力疾走したため、吐き気と疲労の二重苦で息も絶え絶えであった。
頬を切り裂かれ、右肩も血塗れ、顔面は蒼白で幽鬼じみた雰囲気を漂わせるケイに、警戒を担当していた村人たちも村長を呼ぶことすらせず黙って道を開けた。
ふらふらになりながらも、村の中を駆け抜ける。砂利道を抜け、見覚えのある小さな家、クローネンの家へ飛び込んだ。
アイリーンッ
ばん、と小さな部屋の扉を開けると、蝋燭の薄明かりの中、寝台を取り囲んでいた四人の村人たちがサッと振り向いた。
どッ、どうなッ、アイリーンッ
ケイ殿、落ち着いて下され
寝台脇の椅子から立ち上がったアンカが、酸素不足に喘ぐケイの手を引いて、寝台の横までいざなった。
貴方のご尽力で―助かりましたぞ
寝台の上。
穏やかな顔で、すやすやと寝息を立てる、アイリーンの姿があった。
……ああ
へたり込むようにして、寝台の横で膝を突き、ケイは泣きそうになりながらアイリーンの髪を撫でた。
指に伝わる、確かな暖かみ。生きている。
―よかった。
色々と考えることも、後悔することも、あるが。
どうにかアイリーンだけは、助けられた。
よかった、……ほんとうに、
ほっと安堵の溜息をつくと同時。
ふらりと力なく、寝台に突っ伏したケイの意識もまた、泥のような疲労に引きずられ。
そのまま、暖かで心地よい闇の中へと沈んでいった。
12. 遺物
少しばかりグロい部分があるかもしれませんので、苦手な方は注意です。
夢すら見ない、深い眠りだった。
はっ、と突然、覚醒するようにしてケイは目を覚ます。
水の底から水面へ、一気に引き上げられたかのような感覚。窮屈な寝台の上、目に飛び込んできたのは木造の梁が剥き出しになった天井。ぼんやりとした眠気の残滓を振り払い、ケイはがばりと上体を起こす。
そこは、こぢんまりとした部屋だった。
開け放たれた窓からは、穏やかな太陽の光が差し込んでいる。埃のない、清潔に保たれた空間。しかし木箱(チェスト)や虫除けの乾燥ハーブの束、折りたたまれた毛皮など、所狭しと詰め込まれた雑多な生活物資が、物置然とした印象を与える。
どこか―見覚えが、あった。
(あれ、ここってアイリーンが寝かされてた部屋じゃ……)
たしか、クローネン、村長の次男の家だったはず。しかし小さな部屋の中に寝台は一つしかなく、そして当然のように、ケイは一人でそれを占有していた。
アイリーン。
……何処行った!?
叫びながら飛び起きようとした矢先、左の頬を不意に襲った鋭い痛みに、 おぅふ…… と呻いたケイは動きを止め、恐る恐るといった様子で顔に手を伸ばした。
ざらりとした感触と、疼くような痛み。どうやら左頬には湿布のような、包帯のようなものが当てられており、かさぶたのようにくっついているらしい。そこでケイは、昨夜、盗賊と交戦中に短剣で切り裂かれた頬の傷を、そのまま放置していたことを思い出した。
(誰かが手当てしてくれたのか……)
触れた指先に、つんと鼻の奥にしみるような薬液の匂いが付いている。おそらくは村の薬師を兼ねている、呪い師のアンカの手によるものだろう。口の中、舌で頬をつついて痛みを再確認したケイは、これからはしばらく喋るのにも物を食べるのにも苦労しそうだ、と少しばかりブルーになった。