いやしかし、そんなことはどうでもいいのだ、今は。
アイリーン。アイリーンどこ行った。
寝床から抜け出し、バンッと勢いよく扉を開いて部屋の外へ出る。
が、それほど大きくはない上に、構造も単純なクローネンの家だ。扉を開けると、すぐそこは居間だった。部屋の真ん中に置かれた食卓、席について今まさにスープを食べようと、スプーンを手に あーん と大口を開けた幼女と、ばっちり目が合った。
…………
ケイは扉を開け放った格好のまま、幼女はスプーンを口に運びかけた姿勢のまま、それぞれ固まる。
可愛らしい女の子だった。歳は三、四歳といったところだろうか。肩まで伸ばした栗色の癖毛、あどけなさを漂わせる顔にはそばかすが散っており、とび色をした両の瞳は、ケイに視線を釘付けにして大きく見開かれている。まるで森の中で熊にでも遭遇してしまったかのような固まり具合。
……やぁ
ぎこちなく、笑みを浮かべたケイは、とりあえず幼女の緊張をほぐそうと、片手を上げて対話を試みる。
しかしケイは、自分の現在の格好をすっかり失念していた。
重武装な上に、装備は自他問わぬ血液でデコレーション済み、この世界の住人の中では頭抜けて筋肉質で大柄な体格と、頬の傷のせいで引きつった笑みは威嚇の表情にしか見えず、それは、いたいけな幼女を怯えさせるには充分に凶悪な様相で、
キャ~~~~ァ!
一拍置いて、本人としては必死な、可愛らしい悲鳴を上げた幼女は、椅子から飛び降り ママーッ! と叫びながら、とてとてと家の外へ走り出ていった。右手にスプーンを握りしめたまま。
あとには、しょんぼりと手を下ろすケイと、食卓の上で湯気を立てるスープだけが残される。
しばらくして、ぱたぱたと家の外から近づいてくる足音。
お目覚めになったんですね。お早うございます
家の中に入ってきたのは、そばかす顔の若い女だった。洗い物でもしていたのだろうか、濡れた手を前掛けで拭きながらぺこりと頭を下げる。
どこかで見たことがあるぞ、とケイはしばし考え、このそばかす顔の女は、昨夜村長の家で歓待を受けていた際、アイリーンが死にかけていることを伝えにきた者であることを思い出す。状況から考えるに、クローネンの妻だろうか。
お早う。申し訳ない、どうやら娘さんを酷く怖がらせてしまったようだ
おどけたように肩をすくめ、戸口に目をやった。
扉の外から半分顔を覗かせていた幼女が、さっと扉の裏に隠れる。
いえ、うちの子はあまり、村の外の人には慣れていませんから……緊張しているんでしょう。ジェシカ、出ておいで
やっ!
ジェシカと呼ばれた幼女の声が、扉の外から返ってきた。こりゃ嫌われたもんだ、とケイも苦笑する。
あ、わたしは、クローネンの妻のティナです
俺はケイだ、よろしく。ところで、少々聞きたいんだが、昨夜、俺の連れがここで厄介になっていたと思う。彼女は今どこにいるんだろうか?
お連れの方でしたら、村長の家に
ハキハキと答えたティナの言葉に、ケイはほっと安堵の息を吐いて、
そうか、もう意識は戻ったか……
あ、いえ、まだ眠られたままみたいです
えっ?
意識を取り戻したので村長の家に招かれている、と解釈したのだが、違ったようだ。ではなぜ自分と場所をチェンジしたのか、と問えば、
その、昨日夫たちが倒れたケイさんを運ぼうとしたのですが、重くてなかなか動かせず、代わりにお連れの方は凄く軽かったので、ケイさんをウチに泊めてお連れの方を村長の家に移した方が楽という結論に……
成る程、それは……ご迷惑をおかけした
がたいがデカい、筋肉質、完全武装、と三拍子そろえば、それは重いだろう。見れば、篭手や脛当て、兜など幾つかの装備は外されているようだが、革鎧の胴やその下の鎖帷子だけでも十分に重量はある。
しかし、“竜鱗通し(ドラゴンスティンガー)“を含め、外された装備はどこに行ったのだろうか。
あ、お預かりしている武具は、村の革細工の職人が手入れをしてるはずです。お義父さ―村長が命じたとか
腰の鞘があったあたりに手を伸ばし、さり気なく視線を彷徨わせたケイに、目ざとくその意図を察したティナが告げる。
そうか、ありがたい
物が物だけに盗られるとも思っていないが、はっきりと知らされるとやはり安心できるものだ。
(しかし……、もしこの村が悪人ばかりだったら、俺が意識を失った時点でアイリーン共々身ぐるみを剥がされていても、おかしくなかったわけか)
村ぐるみの追剥。
ゲーム内にはそこまで酷い罠は存在しなかったが、中世の資料などでは度々その存在が言及されている。もし、このタアフの村がその一つであったならと考えると、なかなかに恐ろしいものがある。
たまたま善人が多かったからよかったものの、一歩間違えば危なかった、と振り返る。やはり昨夜の自分は、冷静なつもりだったが、何かしら動転していたのだろうか。
…………
突然、ケイが厳しい顔で考え込んでしまったので、何か機嫌を損ねるようなことでもあったのかと、真意を量りかねたティナが困惑の表情を浮かべた。
しかし、その沈黙が長くなる前に、
よお、目が覚めたのか
戸口から声をかけてきたのは、ピッチフォーク―四、五本の歯を持つ熊手のような農具―を肩に担いだクローネンだった。額に薄く汗をかいているところを見るに、農作業をしていたのか。
ああ、ぐっすりと眠ったおかげで、随分と元気になったよ。迷惑をかけた
なに、気にするな
ケイの謝意に、小さく笑みを浮かべるクローネン。昨夜に比べると随分とフレンドリーな様子に、おや、とケイは小さく首を傾げる。
そういや、あんたが目を覚ましたら、話があるって親父が言ってたんだ。来るか?
村長の家か?
そうだ
アイリーンの様子も見に行きたいケイとしては、是非は無い。
ああ、行こう
重々しく頷いたその瞬間、ケイのお腹がぐぅぅ、と盛大に音を立てた。
…………
何が起きたのか理解できないケイ、目をぱちくりさせるクローネン。ティナが ふっ と声を出し、震えながら口を押さえてケイに背を向けた。
おなかすいたの?
いつの間にか、クローネンの影に隠れるようにして足にしがみついていたジェシカが、舌足らずな声で聞いてくる。
どうやら、そのようだな
まるで他人事のケイの返答に、噴き出したクローネンとティナが声を上げて笑う。ケイとしては至極真剣に、幼少期以来の 空腹で腹が鳴る という現象に感心していたのだが、その真面目くさった態度が尚更笑いを誘うらしい。
ティナ、まだスープはあったな?