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……マンデル。明日の明け方、村を出てサティナへ向かおう。馬は俺が連れてきたスズカを貸す。それでもいいか?

ああ。……しかし、ケイの馬か。おれに御しきれるかな?

大丈夫だ、スズカは大人しいからな

なにせ草原の民から殺して奪った上で懐いた馬だ、とケイは胸の内で呟く。サスケは、人懐っこく見えてケイたち以外は乗せないが(面識のあるリリーやエッダならイケるかもしれない)、スズカならマンデルでも問題ないだろう。

では……

空を見上げて、ケイは腰のポーチから澄んだ緑の宝石(エメラルド)を取り出す。

おお……!

思わず、ベネットは感嘆の声を上げた。ケイの指先できらめくそれは、大粒でかなり上質なもの。まさかあれが対価なのか―? と期待に胸を高鳴らせたベネットは、しかし次の瞬間、悲鳴を上げることになる。

Siv ! Arto, Kaze no Sasayaki.

ケイが呪文を唱えると同時、その見事なエメラルドに無数のヒビが入ったかと思うと、ざらあっと崩れ、虚空に溶けるように消えてしまったからだ。

ぞわ、と場が異様な気配を孕む。

窓から踊るように風が吹き込む。

そして一同は、羽衣をまとい艶やかに笑う少女の姿を幻視した。

『アイリーン、話はまとまった。明日の朝、8時頃にはマンデルと一緒にサティナへ戻る。マンデルのために馬を一頭用意してもらえるよう、ホランドに頼んでおいてくれ。頼んだ』

一息に言い切ったケイは、

Ekzercu(執行せよ).

くすくすくす、と少女の笑い声。

― Konsentite ―

びゅごう、と風が渦を巻いて去った。

―全てが幻だったかのように、穏やかな午後の空間が戻ってくる。

……ケイ、殿……?

いや、なに。サティナのアイリーンに声を送った

なんでもないことのように、笑って答えるケイ。

あれが……

ベネットは、未だ衝撃から立ち直れなかった。実は、この部屋の面々は、ケイの『声を届ける魔術』を体験したことがある。アイリーンが毒矢に倒れた際、毒の種類を突き止めたケイから、服用させるべき解毒剤をあの魔術を通して指示されたのだ。

だが、まさか―

(―あれほどの宝石を対価とするものだったとは!)

愕然。

ベネットは村長として、普通の村人より遥かに多くの経験・知識を持つが、流石に魔術は埒外だった。

知らなかった。あんな、村では一財産になるような宝石を、いとも容易く触媒として使い捨てるとは。

リリーが魔術の修行を受けている―その意味を、ベネットはまた違った側面からまざまざと見せつけられた気分だった。

そして何より、それを為したケイだ。なぜこうも平然としていられるのか? 惜しくはないのか? あんなに素晴らしい宝石を捧げてしまっても?

……む?

そんなベネットをよそに、ケイは何かに気づいた様子で、そそくさと窓から距離を取る。

―ケイが数歩、窓の日差しから離れると、途端に、部屋の空気が再びぞわりと異様な気配を孕んだ。

ケイの足元の影が、うごめく。

影法師のように壁へと伸びたそれは、ドレスをまとった貴婦人の輪郭を取る。

『―了解。氷の矢は20本。対価はとびきりの矢避けの護符』

影絵の文字を描いた貴婦人は、優雅に一礼して、ふわりと消えた。

解けるようにして、ケイの影が元に戻る。

まだ日が高いのによくやる……

窓の外を見ながら、ケイはニヤリと笑う。

アイリーンが契約する”黄昏の乙女”ケルスティン―影の魔術は、夕方から夜にかけては低燃費だが、日中は消費魔力が激増する特徴がある。

だが。“黒猫”の恩恵に与っているのは、ケイだけではない。

アイリーンもまた着々と成長しているというわけだ―日中に影絵のメッセージを送るくらいなら、どうということはない程度には。

(それにしても、氷の矢が20本、か)

依頼を受けたコウは、ケイたちのために奮発してくれるらしい。『対価はとびきりの矢避けの護符』―代わりに出来の良い風のお守りを寄越せ、ということか。

(この件が片付いたら、とびきり高性能なやつを作ってみるか。持ち主の魔力を消費するタイプでもコウなら平気だろう……)

ふふっ、と穏やかに笑うケイ。

そんな彼を―部屋の面々は、畏怖の念をもって見つめていた。

今しがたの影の精霊。『正義の魔女』―影を操るアイリーンの仕業であることは一目瞭然だ。ケイが声を送ったなら、アイリーンは影絵を返してきた―

サティナ。騎馬を全力で駆けさせても、数時間はかかる遠方の都市。そこにいるアイリーンとの、ほぼリアルタイムでの意思の疎通。

ネットに馴染みがあるケイとアイリーンからすれば、何でもないようなことだったが、この世界の住人にとっては頭をぶん殴られたようなカルチャーショックだった。

仮に伝書鴉(ホーミングクロウ)を飛ばしても、一時間や二時間はかかるだろう。その距離の通信が―まさに一瞬で―

魔術師とは皆、こ(・)う(・)い(・)う(・)も(・)の(・)なのか?

ベネットは目眩がしそうだった。隣でのんきに すげぇ…… とただびっくりしているだけのクローネンが羨ましい。

おっと、今の影の魔術に関しては、他言無用で頼む。一応、あれでも秘奥の類なんだ。他の者に軽々しく話したら呪われるから注意してくれ

影はどこからでも見ているからな、と言いつつ、人差し指を唇に当てて茶目っ気たっぷりにウィンクするケイ。全員が―マンデルさえも―ぎょっとしたように身を仰け反らせた。

も、もちろんです、決して、決してそのようなことは……

冷や汗をかきながらブンブンと首を振るベネット。 頼むよ とケイは苦笑しているが、魔術の秘奥? ならなぜそんなものを軽々しく見せつけてくれたのか。それに呪いだと? なぜ笑っていられる? 何が可笑しいのか? 理解できない―

さて、すまなかった。それで対価の話だったな

再び席について、ケイが話を戻す。

ベネットも気づいた。すっかり忘れていた、報酬の話がまだ済んでいなかったことを。

そ、そうですな……対価……

服の袖で額の汗を拭いながら、交渉に向け考えを巡らせようとするベネット。

ふむ。正直なところ、俺は、どれだけ払えばいいのかわからんのだ。助力を願うマンデルにこちらから値段をつけるのも、無粋な気がしてならないしな

マンデルに微笑みかけながら、ケイは机の上で手を組む。

―なので、そちらに決めていただきたい。何がどれだけ必要だ?

ごくごく自然体で、問うた。

……それは

ベネットは言葉に詰まる。

ケイは、今回、村側に花を持たせるつもりだ。それは以前、気持ちの上で村を見捨てた罪滅ぼしでもあり、マンデルの助力を重要視していることを示すためでもあった。