(交渉にもならん)
本来、こういう細々した交渉というのは、対等に近い立場でするものだ。
互いの『格』が隔絶していては、交渉の余地などない。弱い方が強い方におもねるだけ。そういう意味では、今回の『交渉』は大成功といってもいい―
(ノガワ=ケイチ、か)
あの夜の名乗りを思い出す。
草原の民の格好をして家名持ちか? などと思ったものだが。
(本当に、家名持ちだった、ということかの……)
これだけの財を持ちながら、自然体。
故郷では一角の人物だったのだろう―などと納得するベネット。
実際は、ゲーム時代の感覚を引きずっていることに加え、魔道具の売れ行きが好調で金銭感覚が狂っているだけなのだが。
何はともあれ、ケイはマンデルの同行がスムーズに決まり、ごきげんだ。
それが全てだった。
†††
リビングの隣の部屋。
壁にぴったりと身を寄せる、憂いを含んだ面持ちの女がひとり。
かすかに響く会話に、じっと耳を澄ませている。
話し合いは一段落したのか、今は和やかな笑い声が―
―シンシア?
と、足元からの舌足らずな声がして、ビクッと震えた。
見れば、ジェシカが、つぶらな瞳でこちらを見上げている。
……なにしてるの?
幼女の問いに、色白の女―シンシアは なんでもないわ と微笑む。
ジェシカ。おやつにしましょう
! わーい! おやつ!
ジェシカが喜んで部屋を出ていく。
何事もなかったかのように、シンシアもゆっくりと、そのあとを追った。
―かすかに膨らんだ腹を、心配げに撫でながら。
90. 出発
前回のあらすじ
(不穏)
翌朝。
うっすらと空が明らむ中、ケイとマンデルはタアフ村を発つ。
お父さ~ん! 気をつけてーッ!
無事に帰ってきてね~ッ!
マンデルの二人の娘はもちろん、ベネットやクローネンをはじめとした村人たちも見送りに出ている。シンシアはいなかったが、ケイの鷹並の視力は、村長屋敷の窓から心配そうにこちらを覗き見る彼女の姿を捉えていた。
―なぜ堂々と見送らないんだろう? マンデルと確執でもあるのか?
などと疑問に思いつつも、ポンッと軽くサスケの腹を蹴るケイ。
常歩(なみあし)から駈歩(かけあし)へ。サスケがゆるやかに加速していく。マンデルの駆るスズカも問題なくついてくる。
そうして二騎は、木立を抜け、草原へと駆け出した。
草原の緑と、朝焼けに燃える空の対比が美しい。思わず見惚れそうになるが、ぶわっと吹き寄せた風の冷たさにケイは身震いした。
秋でこれなら、冬になったら相当な寒さだろうな―と革のマントの襟を手繰り寄せながら、顔布を装着する。白地にひらひらと踊る赤い花の刺繍。これで顔面が冷えずに済む。
それ、相変わらず使ってるんだな
隣のマンデルが、刺繍に目を留めて声をかけてきた。
ああ。重宝してるよ
この顔布は、イグナーツ盗賊団との戦闘で破損してしまったものだ。それをシンシアが修繕し、花の刺繍までしてくれた。基本的には、戦闘時に表情を読まれにくくするために使うのだが、そこに可愛らしい花のモチーフをあしらうとは―独特なセンスを感じる。
しかし……あんまり付けない方がいいかな?
以前、マンデルに 草原の民と誤認されるから気をつけろ と言われたことを思い出し、顔布に手をかけるケイ。
いや。……どうせおれたちしかいない。大丈夫だろう
そうか
それと、昨日はありがとう。……娘二人も呼んでくれて
昨夜、あのあとケイは村長屋敷で歓待された。
マンデルが仕留め、熟成させていたとっておきの鹿肉が夕餉に振る舞われた。マンデル本人はもちろん、その娘二人も同席しての食事会だ。娘たちを招くことを提案したのはケイで、突然父親を連れ去ってしまうことへの詫びも兼ねていた。
食事の席で、ケイは武闘大会以降の旅路を語った。村に着くなり大物狩りの話になって、マンデルにもその後の経緯を伝えていなかったからだ。
ウルヴァーンで名誉市民権を取得するために奔走したこと。図書館での調査で『魔の森』の伝承を見つけたこと。緩衝都市ディランニレンを抜けて北の大地を放浪したこと。水不足に苦しみ、独力での北の大地横断を諦めてディランニレンへ引き返したこと。ガブリロフ商会の隊商に参加し、馬賊と激突したこと―
己の武勇伝に関しては、少し誇張した。自分はそれなりに武力があるから、無事に狩りを終わらせてマンデルを無事に帰す―という、娘たちに向けてのメッセージのつもりだったのだ。しかし当の本人たちは、慣れない村長屋敷での食事会に緊張して、それどころではなかったようだ。
招いたのは余計なお世話だったかもしれないな、と苦笑したケイは、昨夜の席を思い返す―
†††
『―それで、しこたま矢を食らってハリネズミみたいになってな。そのときの傷がこれだよ』
食後の葡萄酒を味わいながら、席の後ろに置いてある革鎧を示すケイ。
『ずいぶん多いな。……これ、全部が?』
『ああ』
『……よく生きてるな』
革鎧に近づいたマンデルが、補修された傷跡を指でなぞりながら言う。同席したクローネンが『化け物かよ』と呟いて、横合いからベネットに頭を叩かれていた。
『“高等魔法薬(ハイポーション)“のおかげさ』
ケイは何気なく答える。ハイポーションと聞いて、ランプの明かりの下、ベネットの目がギラッと光った。
『もっとも、この戦いで飲み干してしまったが』
当然、それに気づいた上で、しれっと付け加えるケイ。
タアフ村では以前、ハイポーションの存在を明かしている。村を去る際、特に口止めはしていなかったが、今のところ噂が広まる気配もないようだ。しかし、ケイたちがサティナへの定住を決めた以上、 あいつは奇跡の霊薬を持っている と近隣で噂されるのはまずい。
なので、もう『使い切った』ことにしてしまおう、というわけだ。
(まさかサティナに定住することになるとは、思ってもみなかったからな……)
転移直後ということもあり、脇が甘かった。アイリーンを助けるためだったので致し方ないことだったが。
ちなみにポーションは、少量だがまだ残っている。これ以上、使う機会に恵まれないことを祈るのみ……。
『まあ、後悔はしていない。全てを出し切らなければ、とてもじゃないがあの戦いを生き残ることはできなかった』
『ううむ……そうでしたか……』