だが、それもいつまでもつか……
勝ってくれ……
胸の痛みをこらえつつ、震える手でノロノロとクロスボウの弦を巻き上げながら、キリアンは呟く。
頼む……
早く終わってくれ。
それが誰のための祈りなのか―
もはやキリアン自身にもわからなかった。
†††
アイリーンは駆ける。
背後からは、ともに走るマンデルとロドルフォの荒い息遣い。たとえ自分一人でも突貫するつもりだったが、二人の存在が思いのほか心強い。
できれば無事に帰したいが―
(……なんとかするしかない)
不吉な思いを振り払い、暴れ回る二頭の巨竜を観察する。
大柄な個体、雄竜は満身創痍だ。爆裂矢や長矢を受け、胴体からの出血がおびただしい。顔面にも矢が突き立ち、左目は潰されている。おそらくもう長くはない―放っておいても明日には息絶えるだろう。
だが、今この瞬間、脅威たるには充分すぎる生命力。流石に動きは鈍っているようだが、執拗にサスケとケイを追い回しており、止まる気配はない。
もう一頭、小柄な雌竜は比較的軽傷だ。顔面はケイの集中砲火でハリネズミのようになっているものの、未だ致命傷は負っていない。先ほど、ゴーダンの投槍が脳天を直撃したのが一番の傷か。
雌竜は、ケイの射線から重傷の雄竜を庇うように立ち回っているようだ。ケイも魔法の矢や長矢はあらかた使い果たしたらしく、何本も矢を撃ち込んでいるが、雌竜は怯むどころか怒りでむしろ動きが速くなっているようにも見える。
どちらを狙うか。
重傷の雄竜か、まだピンピンしている雌竜か。
……やはり雌竜だろう、とアイリーンは結論づけた。
ここで弱っている雄竜にトドメを刺してしまい、雌竜討伐に本腰を入れるという手もあるが―
(ただでさえ荒ぶってんのに、相方が殺されたらどれだけ怒り狂うか)
それが恐ろしい。見境なく暴れ回り、トチ狂って村の方にでも突撃し始めたら今度こそ止めるすべがない。
ケイの―自分たちの身の安全を第一に考えるなら、それもアリではある。ケイもアイリーンも、その気になれば振り切れるのだ。一通り暴れて体力を使い果たしたところで、再び攻撃を仕掛けてもいい。
(―けど、それはお望みじゃないだろう?)
ケイは”森大蜥蜴”を狩りに来たのではない。
村を守りに来たのだ。
ならば。
雌竜を引きつける。ヤツの動きが止まったら、二人とも頼むぜ
……わかった
おうとも!
緊張気味のマンデル、向こう見ずなロドルフォ。走りながらいつでも放てるよう、それぞれ矢をつがえる。
アイリーンは、すぅぅっ、と息を吸い込んだ。
Ураааааааа(ウラァァァァァァァァ)!!
吠える。裂帛の気合で。
小柄なアイリーンが放ったとは思えない、びりびりと耳朶を震わせる咆哮。驚いて思わず速度を緩めるマンデルたちとは対照的に、さらに加速する。
雌竜は相変わらずケイを追うのに夢中で、アイリーンなど気にも留めない。圧倒的な体格差―いくらアイリーンが殺気を放とうとも、人間でいうなら、足元から仔猫が シャーッ! と威嚇してきているようなものだ。殺し合いの最中に道端の仔猫を気にする者がいるだろうか。
だが、その仔猫が、威嚇するだけでなく爪で引っ掻いてきたとしたら。
そしてその爪に猛毒が仕込まれていたとしたら―?
果たしてアイリーンは、“森大蜥蜴”の暴風圏に踏み込んだ。
巨大な四足が大地を踏み荒らし、大蛇のような尻尾が暴れ回る。常人なら接触しただけで致命傷、巻き込まれれば圧殺必至。死地。ビュゴゥッと空を引き千切る尻尾の薙ぎ払いを紙一重で躱し、肉薄する。
視界いっぱいに広がる青緑の体躯―最高の革防具素材として名高い”森大蜥蜴”の表皮。強靭な皮膚組織は大抵の武具を弾き返し、分厚い肉が衝撃を無効化する。
サーベルは量産品に過ぎない。“地竜”を屠るにはあまりにもお粗末な得物。
が、その使い手の技量は生半可ではなかった。
雌竜の後脚、サスケに飛びかかろうと、力が込められたその瞬間。張り詰めた関節部分、力学的に脆くなった部位を一瞬にして見切る。
サーベルが鞘走った。
黒光りする刃が弧を描く。
ビッ、と青緑の表皮に、赤い一文字(いちもんじ)が刻み込まれた。
グルルルルアァァ―ッッ!?
猛毒の激痛が神経を焼き、雌竜がビクンッと体を震わせて振り返る。
アイリーンは視線を感じた。雌竜ではない、その背後、ケイだ。アイリーンが仕掛けたのを見て、汗だくのサスケの首を励ますように叩き、雄竜に矢を射かけて注意を引きつけている。
ケイと雄竜、アイリーンと雌竜。
つかの間の分断、各個撃破の構図。
―うおおおお!
と、アイリーンの左右後方から、マンデルとロドルフォが雌竜の顔面めがけて続けざまに矢を放った。
喰らいやがれ―!
ロドルフォがここぞとばかりに怒涛の速射を見舞う。マンデルの狙い澄ました一撃も含め、眼球を射抜く軌道の矢もあったが、雌竜はブルンブルンと頭を振り全て弾き返してしまう。
だが、その間にアイリーンは次なる一手を打っていた。懐から取り出すは、革袋。中にはぎっしりと、水晶の塊と大粒のラブラドライト。
大盤振る舞いだ―
陽はまだ高く。
ゆえに影は濃く。
革袋を開け、ざららぁと中身をぶちまける。
Kerstin!
アイリーンの足元の影に、とぷん、とぷんと触媒が沈んでいく。
Kage, Matoi, Otsu.
素早く印を切り、叫ぶ。
Vi kovras(覆い隠せ)!
アイリーンの影がたわみ―爆発した。
影の触手が雌竜の頭部にまとわりつき、完全に覆い隠す。視界が暗闇で閉ざされた雌竜は、一瞬、何が起きたのか理解できずに動きを止めた。
だがそれも、長くは続かない。
手持ちの触媒全てと、少なくない魔力を捧げたにもかかわらず、さんさんと照りつける陽光に灼かれ影のヴェールはほどけるようにして消えていく。
グルァ―?
しかし雌竜が視界を取り戻したとき―そこにアイリーンの姿はなかった。
わかるはずもない。
自らの頭部に―
ぽつんと影が差していることなど。
―上等
跳躍の頂点。
サーベルをまっすぐ下に構えたアイリーンは、獰猛に笑う。
ゴーダンの槍がぶち抜いた雌竜の額、『第三の目』―
死ね!
舞い降りたアイリーンは、そこへ全体重をかけた一撃を叩き込む。
ガツンと頭蓋骨に刃が食い込む感触―
(浅いッ!!)
しかし、アイリーンは顔を歪める。狙い違わず、確かに傷口を抉ったが、それでも硬すぎる―貫通には至らない―