足首から先を握ったアイリーンは、そこで、拍子抜けしたように。
ふっと顔から表情が抜けたまま、しばし呆然とする。
……、あれ
そこで初めて、我に返り、周囲をきょろきょろと見回した。
それほど大きくはない部屋だ。
緑色の絨毯。レリーフの刻まれた木箱(チェスト)。古びた巻物や書物が詰められた本棚。ガラスの嵌っていない窓からは、穏やかな陽光が差し込んでいる。窓の外には、木造平屋建ての質素な家屋がぽつぽつと、その向こう側には緑豊かな森が広がって見えた。
……何処だ、ここ
ぽつりと呟いた。ふと身体を見下ろして、自分が黒装束ではなく、白い薄手のワンピースを身に纏っていることに気付く。服の上から身体を撫でると、ブラは無かったが、下は穿いていた。
―どうして、こんな服を着てるのか。
そんな疑問が脳裏をよぎる中、服を撫でる手が右胸に触れた瞬間。
ズグンッ、と身体の芯に響くような痛みが、フラッシュバックする。
あっ
思い出した。
霧を越え、草原を惑い、木立の中、焚き火の薄明かりに照らされた夜の風景を。胸に突き立った矢。自分を抉り取った痛みの記憶。
それはまるで、他人事のように現実離れしていて、頭の中に、おぼろげな、混濁した心象(イメージ)を描き出した。
しかし、曖昧な記憶の中でも、ひとつだけは、はっきりと憶えている。
声。
自分の名前を呼ぶ声。
……ケイ?
ひとり部屋の中、か細い声でその名を呼ぶ。
しかし、当然のように返事はない。ただ窓の外から時折、鳥の鳴き声が聞こえる他は、しん、と静まり返った空間。
ぎゅ、とシーツの端を握りしめ、心細げな表情を浮かべたアイリーンは、再び落ち着きなく周囲を見回し、ふと部屋の扉に目を留めた。
絨毯と同じ、濃い緑色に塗装された木の扉。
数秒の逡巡。こくり、と生唾を飲み込み、意を決したアイリーンは、音を立てないようにそっと寝台から降りた。覚束ない足取りで、壁に手を突きながらふらふらと歩き、ゆっくりと扉を押し開く。
ギィィッ、と想像していたよりも大きな軋み。
びくびくしながらも、部屋の外へ出る。
そこは、リビングのような大きめの部屋だった。部屋の真ん中には大きなテーブル、天井には樹木を象った意匠の金属製のシャンデリア。足元は絨毯ではなく、粗めの木材を打ちっ放した木の床だった。絨毯に比べると薄汚れており、素足ではあまり歩きたくはなかったが、アイリーンに選択の余地はない。
窓を見る。やはりガラスの嵌っていない、質素な作りの窓。もうひとつ、テーブルの反対側には扉があったが、どうやらこれは玄関らしい。
家の外に出るかどうか。
アイリーンは、迷う。
自分が何処に居るのか確認はしたいし、でも裸足だし、そもそも誰がいるのか分からないし、と。
しかしそうやって迷っているうちに、扉の方がギィッと音を立てて開く。
……あら
入ってきたのは、線の細い、色白の美人だった。腕に抱えた籠の中には、綺麗に畳まれた衣服が積み重なっている。
お目覚めになられたのですね
突然の遭遇に固まって動けないアイリーンに対し、色白の女性―シンシアは、にっこりと優しげに語りかけた。
あっ、あのっ、はい
シンシアの柔らかな笑みに少し緊張が解け、なんとか動きを取り戻したアイリーンはこくこくと頷いて返す。
良かったです。お連れの方が、随分と心配しておられましたから……
……連れ? 連れって、ケイのこと!?
そうです、ケイ様です
……そっか、……ケイ、居るんだ
テーブルに籠を置きながら、慈しむような微笑みのシンシアに肯定され、ほっと肩の力が抜ける。
はい。今は、出かけておられますが、そろそろお戻りになる頃合いかと
そっか。……ありがと
安心したのと同時に、ふらりと、足に力が入らない自分を感じた。
なんだか―身体が、重い。
……お加減が優れないのですか? まだ、身体が弱っておられるのでしょう。お休みになられた方が―
心配げなシンシアが全てを言い終わる前に、家の外からがやがやと騒がしげな声が聞こえてくる。
あら、噂をすれば……。アイリーン様、ケイ様がお戻りになられたようです
がらがらと荷馬車の近づいてくる音を耳にしたシンシアが、にっこりと笑った。アイリーンが ホント!? と顔を輝かせる。そんな少女の姿に、今は休むよりもケイと会った方が元気が出るかもしれない、とシンシアは他愛のないことを考えた。
自分が微笑ましげな目で見られているとはつゆ知らず、アイリーンはそそくさと家の扉を開ける。
ケイ! 戻って―
きたのか、と。
続けようとした元気な声が、しぼんだ。
赤黒い行進。
目に飛び込んできたのは、疲れ切った表情で歩いてくる男たちと、がらがらと音を立てる荷馬車、そして馬にまたがった一人の青年だった。
青年。バウザーホースを駆り、右手に朱色の弓を持った彼は、間違いなくケイだ。
しかし、籠手や胴の鎖帷子はどす黒く汚れ、その表情は遠目にも険しい。アイリーンが知るケイのアバターそのままの、どこが変わったかと問われても答えられない、それでもアイリーンが知っているケイとは、明らかに何かが違う顔つき。
―ケイであるのは、間違いない。でも自分が知っていたケイではない。
そんな確信めいた困惑が、声をかけることを躊躇わせる。
! アイリーン!?
が、困惑している間に、ケイの方が立ち尽くすアイリーンに気付いた。
アイリーン!! 目が覚めたのか!
先ほどまでの厳しい表情は何処へやら、顔を輝かせたケイがひらりと馬から飛び降り、アイリーンに駆け寄ってくる。
―っと、この格好じゃ不味いな
そのまま抱きつきかねない勢いだったが、自分の体を見下ろして立ち止まった。
片や、真っ白なワンピース姿。
片や、どす黒く血で汚れた姿。
数歩。
近いが、手は届かない。
そんな距離。
…………
顔を見合せたまま、お互いに、どこか困惑したような笑みを浮かべる。
その、オレ、眠ってたみたいだな?
あはは、とぎこちなく笑ったアイリーンに、 そうだな、 と調子を取り戻したケイが頷いた。
丸一日寝てたぞ。体の調子はどうだ? 昨日のこと、憶えてるか?
ん……体は、多分、大丈夫だ。昨日のことは、焚き火のトコまでは憶えてるけど、そのあとはあんまり
矢を食らったのは?
憶えてる。そこらへんから、ちょっと夢を見てたみたいに曖昧な感じがする
そうか……
……もしかして、ポーション、使ったのか?
右胸の、矢が刺さっていたところを撫でながら、アイリーン。