カポカポ、カポンと。
木靴の音を立てながら、穏やかな陽光を浴び、土がむき出しの道を行く。
(……体が軽いな)
歩きながら、アイリーンは昨日に比べ、明らかに体の調子が良いことに気付いた。自然と窓枠を乗り越えられた時点で気付くべきだったが、しっかりと足腰に力が入るのだ。
ふふっ、と小さく笑みがこぼれ、自然と足取りも軽くなる。
(えーと、ケイは何処にいるんだっけ)
確か―クローニンだかクローネンだか、そんな感じの名前の、村長の次男の家にいたはずだ。
それは、憶えているのだが。
彼の家が何処にあるのか、思い出す以前に、そもそも全く知らないということに気が付いた。
……えーと、
どうしたものか、とその場でうろうろしていると、村の中心の方から、壺や革袋を抱えた女たちが歩いてくるのが見えた。姦しく響く話し声。
……あら、アイリーン様。いかがなされたのですか、こんなところで
その集団の端、いつも通り柔らかな笑みを浮かべたシンシアが、アイリーンに目を止めて声をかけてくる。それに続いて他の女たちもアイリーンの存在に気付き、先ほどまでの姦しさはどこへやら、ハッとした表情で猫をかぶったように大人しくなった。
ケイに、会いに行こうと思った、んだけど……。何処にいるか、分かんなくって
面と向かって問われると、なんだか、ただ ケイに会いに行く というのが、気恥ずかしく感じられた。アイリーンは目を泳がせて、しどろもどろに答える。
その、何とも初々しい雰囲気に、村の女たちが あらぁ~ とはやし立てるような声を上げ、さらに羞恥心を煽られたアイリーンは自分の頬がかぁっと熱くなるのを感じた。
あっ、ケイ様でしたら、うちに!
そんな中、 はいはいはい! と元気に手を上げたのは、そばかす顔の若い女だ。
あなたは?
クローネンの妻の、ティナです!
水の入った壺を抱えた、そばかす顔の女―ティナは、アイリーンにぴょこんと一礼して見せた。
我が家はこちらになります、というティナに連れられて、カポカポと村の中を歩いていく。案内されてみれば、クローネンの家は拍子抜けするほどに近かった。 狭い家ですが、どうぞ と中へ招き入れられる。
ケイ様は、早朝に狩りに出かけられたようです。でも、もう日も高いですし、そろそろお戻りになる頃かと
そうだったんだ
居間に通され、テーブルの席に着いたアイリーンは、さりげなく部屋の中を見回した。ティナの言葉通り、村長の家に比べればやや手狭で質素だが、板張りの床には塵ひとつ落ちておらず、かなり清潔な印象を受ける。
これなら裸足で歩いてもいいな、などと思いながら、テーブルの下でカポカポと木靴を動かして暇を潰した。そんなアイリーンをよそに、ティナは壺の水を鍋へ移して、かまどで火を起こして、と何やら忙しそうだ。
―今、お茶を淹れますので
ああ。ありがとう
乾燥ハーブの束を手に微笑みかけるティナに、彼女が自分のためにお湯を沸かそうとしていると気付き、アイリーンは軽く会釈して礼を言う。
……
しばしの沈黙。ぱちぱちと、かまどの焚き木が弾ける音だけが響く。
テーブルに肘をついてぼんやりとしていると、頭に浮かぶのはやはり、先ほどの『アレ』だった。
脂ぎった男の顔が脳裏をよぎり、すぐに消え、代わりに柔らかで線の細い、慈しむような微笑みが思い起こされる。
……なんでシンシアさんは、結婚したのかな
ぽつりと、率直な疑問が口を衝いて出た。
シンシアとダニー。少なくとも、見かけだけでいえば、到底お似合いとはいえないような夫婦だ。ダニーにそれほど人間的な魅力があるとも思えないし、その美しさから引く手数多だったであろうシンシアが、なぜ、よりにもよってダニーと結婚することを選んだのか、純粋に疑問だった。
あ~……義姉さんは、色々と気の毒ですよね
アイリーンの独り言に、したり顔のティナ。
気の毒?
望んだ結婚ではないんですよ。殆ど身売りみたいなもんです
……というと?
僅かな興味の色を覗かせて小首を傾げると、 ここだけの話ですよ という常套句で声をひそめたティナは、
もう十年近く前の話になりますけど。義姉さんの妹さんが、熱病にかかってしまったんです。街に行けば治療薬は手に入ったんですけど、それが物凄く高価で……。義姉さんの家は裕福じゃなかったので、どうしたものか困っていたところに、あの男が、
ティナの『あの男』という言葉には、かなり棘があった。
―『親(・)類(・)な(・)ら(・)助けることもできるんだがなぁ』なんて、金をちらつかせながら言い出したんですよ。その時、義姉さんには、両想いの恋人がいたことを知りながら!
……へぇ、それは
つまり、妹を救うために、恋人を捨ててダニーの元へ嫁いだということか。
うーん、と唸り声を上げたアイリーンは、眉をひそめて何とも居た堪れない表情を浮かべた。
……それで、その妹さんは、助かったの?
……はい。そ(・)の(・)時(・)は(・)
頷くティナの顔は、渋い。
でも病気が治って一か月もしないうちに、森の外れで運悪く獣の群れに襲われて、亡くなりました
うわぁ
しかも、それを知っての第一声が、言うに事欠いて『金が無駄になった』ですよ。それも義姉さんの前で……あの豚野郎
ぶ、豚……
直球だが的確な言い様。不覚にもツボに入ったアイリーンは一瞬、顔をひきつらせる。
それにしても、シンシアを義姉と呼ぶならばダニーは義兄なわけだが、ティナは随分と彼を嫌っているようだ。
……彼のこと、嫌ってるんだ
そりゃもう! この村でアイツが好きな奴なんていませんよ!
腰に手を当てたティナは、ぷんぷんと擬音が聴こえてきそうな勢いで頬を膨らませた。
いつも偉そうに人を顎で使ってくるし、その割に自分は仕事しないし! 家に閉じこもってばかりで、たまに外に出たかと思えば、ただぶらぶら散歩してるだけだったり、街に遊びに行ったり。しかも話によると娼館通いしてるらしいですよ、金で義姉さんを娶った癖に……。義姉さんには気の毒だけど、子供がいつまで経っても出来ないのも、みんな天罰だって言ってます
そこまで早口で言ってから、ティナは小さくため息をついた。
はぁ。将来、あれが村長になるのかと思うと、気が重い……いっそのこと、ウチのダンナが村長になってくれたらいいのに
ぷすーっ、と息を吐くティナの言葉に、アイリーンの表情が渋いものとなる。
金で買った婚姻。嫌われ者。娼館通い。
アイリーンの中で、ただでさえ印象最悪だったダニーの評価が、さらに下降していく。そして、自分は少なくともあと一日、この村に―村長の家に―留まるという事実が、ずっしりと心にのしかかってきた。