あの、ティナさん
はい?
実は、ここだけの話、
声をひそめたアイリーンは、先ほどの『アレ』を、ティナに打ち明けた。
ええッ!?
ダニーが部屋に居た、というくだりで、目を見開いて顔を青ざめさせたティナは、
だだだ、大丈夫だったんですか!?
多分……。何もされてないと思うけど……
何か、どろどろしたものとか、かけられてませんでした?!
そ、それも多分大丈夫……
うええ、と顔をしかめながら、アイリーンは首を振った。
はぁ~まさかあの豚、客人にまで……?
頭痛を堪えるように、額を押さえたティナ。光彩の開いた瞳で、ゆらりと、台所の肉切り包丁を見やる。
いっそのこと……そうだわ、そうすればクローネンが村長に……
いっ、いや! 個人的には、ただ泊まる家を変えられないかなって……!
打算と欲望の色に瞳を濁らせ始めたティナに、アイリーンは慌てて声を上げた。 いやですねー、冗談ですよー と朗らかな笑みを浮かべるティナだが、冗談なのか本気なのか、なかなか判断に迷うところだった。
と、そのとき、ばたんと音を立てて外への扉が開かれる。
おーいティナ、いるか―って、あれ
草刈り鎌を手に、手拭いで汗を拭きながら家に入ってきたのは、クローネンだった。居間の椅子にちょこんと腰かけるアイリーンに目を止めて、ぱちぱちと瞬きしたクローネンは、
……なんでウチに姫さんが?
あなたぁいいところに! ちょっと聞いてよ、酷いのよ!!
ぷふぁぁっと振り返って目を輝かせたティナが、獲物に食らいつく猟犬のように距離を詰め、ことの顛末を説明する。
―と、いうわけなのよ! あなた、これはチャンスよ!
ティナは鼻息も荒く、
徹底的に糾弾して、アイツを次期村長の座から蹴落としてやりましょう!
…………
頭痛を堪えるように、ぺしっと額を押さえ天を仰いだクローネン。小さく溜息をつき、無言のまま、ティナの額をスコーンッと草刈り鎌の柄で叩いた。
あだぁッ!?
……すまない、姫さん。ちょっと待っててくれ
申し訳なさそうなクローネンは、額を押さえて うごぉぉぉ と呻くティナの腕を掴み、そのままずるずると家の外まで引きずっていく。
あ、うん……
ひとり、残されたアイリーンは、半ば呆然としたまま。
……あ、お湯沸いてる
しゅーしゅーと、鍋の蓋から吹き出る湯気の音だけが、静かに響いていた。
†††
ちょっと、痛いじゃない、何すんのよ!
静かにッ、あんまりでかい声を出すな!
家の外。声を荒げるのは、額を赤くしてお冠のティナに、負けじと彼女を睨みつけるクローネンだ。
頼むから、あんまり騒ぎを大きくしないでくれ……!
なんでよ、千載一遇のチャンスだわ!
チャンス? チャンスだと!
はっ、とクローネンは乾いた笑みを浮かべた。
姫さんはともかくとして、あのケイとかいう男は化け物だ! 下手にことを荒立てて、怒りを買ったら何をされるか分からん!
豚野郎に全部かぶって貰えばいいじゃない、別にアイツが殺されたってわたしは構わないわ
お前な……!
ティナのあんまりな言い様に、思わずクローネンは顔を引きつらせる。
あんなのでも一応、俺の兄貴なんだぞ!
知ってるわよ! わたし、貴方のことは好きだけどあいつは嫌いだわ。大嫌い
ぷい、と顔をそむけるティナ。
幼少期、両親の生業である養豚を手伝っていたティナは、当時ガキ大将だったダニーに幾度となく『豚臭い』とからかわれて泣かされており、今でもそれを相当根に持っている。ただの農民の癖に、水浴びや掃除が潔癖症一歩手前まで習慣化してしまったのも、そのせいだ。
お前が兄貴を嫌ってることは知ってる。だがそれとこれとは話が別だ、兄貴が死んだら誰が村長を継げる!?
……っあなたよ! あなた以外に誰がいるっていうの!?
信じられない、と言わんばかりに頬を紅潮させ、声を裏返らせるティナ。しかし対するクローネンの表情は、げっそりと、どこかうんざりしたように。
―自分には無理だ。
その想いは、どこまでも苦々しい。
クローネンは、自覚しているのだ。自分には、ダニーの代わりは務まらないと。
たしかに、ダニーには人間的な欠点が多い。
まず村の若年層には好かれていないし、女がらみとなると途端に理性を失くす節がある。その上、大飯食らいで、意地汚く、欲深で、守銭奴。そして何かにつけて尊大な態度を取り、それに反感を抱く村人は、実際のところかなり多い。
“自分でも、村長は務まる”
“むしろ、皆に慕われている自分の方が、ダニーよりも村長に相応しい”
そう考えていた時期が、クローネンにもあった。周囲の友人に持ち上げられ、調子に乗っていたのか。あるいはダニーは嫌われているという事実が、背中を押したのか。それとも単純に、ダニーを村長に推し、自分には目もくれない父親(ベネット)への反発心だったのか。いずせによ、クローネンは成人するまで、自分の方がずっと村のまとめ役に向いていると、そう信じて疑っていなかった。
しかし本格的に、村の運営に関わる仕事に触れたとき。
おのずと、悟ってしまった。
片や、幼い頃より、書物や商人たちの話から見聞を広め、ずっと勉学に励んできたダニー。
片や、勉学を放り出し、友人たちと一緒に野山を駆けずり回って遊んでいた、自分。
頭の地力が、知識量が。
余りにも―違いすぎた。
たしかにクローネンには、読み書きや計算の素養がある。怠けて途中で放り出したとはいえ、椅子に無理やり縛り付けられるようにして、ある程度の教養をベネットから叩き込まれていたからだ。
ゆえに税の計算や帳簿の管理など、村長として要求される最低限の業務は、こなすことができる。
しかしそれはあくまで、『最低限』。村の代表として、もっと重要な業務は他にある。
例えば、商人から適正価格で商品を購入したり。
あるいは、村の生産品を適正価格で販売したり。
また、それらをこなすための人脈を開拓したり。
知識も、経験も、咄嗟の機転も、全てが足りないクローネンには、上手く出来ないようなことばかりだった。しかし、そんな煩雑な仕事を、ダニーはまるで商人のように難なくこなす。
それを間近で見せつけられたクローネンは、己の不甲斐なさに、そして兄との決定的な能力差に、ただ、打ちのめされた。
しかも。それをこなした上で、ダニーは金策も忘れていなかった。
行商人たちの話から、あるいは街の片隅でのさり気ない会話から、拾い上げた情報を分析・統合し、市場の傾向や物価の動向を予想する。