『嬢』というような歳でもありませんがの
ほっほっほ、と笑い声を上げるベネット。
その隣、腰を曲げた呪い師のアンカが、楚々と進みでる。
ケイ殿、
懐から幾つかの水晶の欠片を取りだしたアンカは、
Bondezirojn. La grandaj spiritoj benos vin.
しわがれた声で、朗々と唱える。
ぱきん、と水晶がひび割れ、緩やかな風が吹いた。
アンカの手の平から風にすくわれた水晶が、きらきらと光り輝きながら、空へと散って行く。
くすくす、という無邪気な笑い声を、ケイは聞いた気がした。
―あなたの旅路に、幸多からんことを
祝福を終え、どこか得意げな顔で、アンカ。
……ありがとう、婆様
ありがとな! アンカ婆さん!
一礼したケイとアイリーンは、おもむろにサスケに跨る。ケイは鞍に、アイリーンはその後ろ、ケイの背中にぴったりとくっつくようにして。
加えて生活物資まで載せられたサスケが お、おもい と言わんばかりに困り顔でケイを見やるが、最高速で飛ばすわけではないので、旅路に支障はないはずだ。 すまん、頼むぞサスケ とケイが首筋を撫でると、サスケは しかたない と言わんばかりに鼻を鳴らして溜息をついた。
ぽん、とケイが脇腹を蹴ると、サスケはゆっくりと進み始める。
それじゃーなー、みんなー! 元気でなー!
ケイの背後、アイリーンが見送りの村人たちへ手を振って叫んだ。 元気でなー! とそれに返す言葉が聴こえてくる。
ぱっかぱっかと。響く蹄の音。木立に入り、見送りの姿も見えなくなったアイリーンは、サスケの背中に座り直した。
……良い人たちだったなぁ、ケイ?
……そうだな
アイリーンの無邪気な声に、ふっと、ケイは肩の力を抜く。
また、来れるかな?
しかし、続けて投げかけられた問いに、しばし、言葉を失った。
……来れるさ
しばらく間をおいてから。
ケイは、静かに答えた。 また今度来ようぜ! というアイリーンの声を、聞き流しながら―。
この世界に転移してから、おおよそ二日。
村での休息を終えたケイたちは、サティナの街を目指して、出発した。
以上、タアフの村編でした。
16. 公平
さらさらと。
小川のせせらぎが、耳に心地よい。
穏やかな昼下がりの陽光。照らされた水面はきらきらと美しく。
木立を吹き抜ける清涼な風が、さわさわと葉擦れの音を運んできた。
兜を脱いだケイは、木陰に腰を降ろして、ふぅ、と小さく溜息をつく。
タアフの村を発ってから、はや数時間。
超過重量で辛そうなサスケの体調を鑑みて、ケイとアイリーンは木立でしばしの休息を取っていた。
川に首を突っ込んで、がぶがぶと水を飲んでいたサスケが、 ぷはぁッ! と盛大に一息をつく。それを尻目に、ケイはバックパックをごそごそと探り、包み紙の中から堅焼きのビスケットを取り出してぼりぼりとかじり始めた。
はぁ。……さすがに三、四時間も乗ってると、キツいなぁ~
ケイの隣、木の根っこに腰かけたアイリーンが、首をゴキゴキと鳴らしながら大きな溜息をつく。
そうだな。……流石にダレてきた
水筒の水でビスケットを飲み下し、ややげっそりとした顔でケイ。どちらかといえば、 かったるい というニュアンスのアイリーンに対し、ケイの言葉は少々切実だ。
タアフの村から今まで、何事もなかった。
かれこれ数時間、小川を辿るようにして東へ進んでいるが、右手には森、左手には草原を望む田舎の道は、驚くほどに穏やかで、のどかだった。
通行人は、時たま森の獣や草原の兎を見かけるくらいのもので、行きずりの旅人や隊商に出会うこともない。一度、タアフよりも貧相で小さな規模の村も見かけたが、胡散臭げにこちらを見る住人に手を振っただけで、接触することもなかった。
欠伸が出るほどに、平和で退屈な道のり。
しかしこんな状況下でも、ケイは自分に予断を許さなかった。
どんなに平和に見えても、森の中から唐突に、凶暴なモンスターが飛び出してくるかもしれない。茂みの暗がりに、草原の草陰に、盗賊や追剥が潜んでいるかもしれない。
いつ、どこから現れるとも知れぬ敵に備えて、即時に矢を放てるよう、ケイは弓を手に警戒し続けていたのだ。
少数での旅路に警戒が不可欠なのは、ゲーム内でも同じこと。しかしゲームでの移動時間は、どんなに長くてもせいぜいが一時間だったのに対し、ケイはもう三時間以上、神経を尖らせ続けている。
背中側に座るアイリーンが後方を見張っているので、負担は幾分か軽減されているものの、殺気の感知はやはりケイの領分だ。いずれにせよ全方位に気を払う必要があり、しかも実際に、危険に曝されるのは自分たちの命となると、精神的な重圧もひとしおだった。
流石にそろそろ、集中力が持たない。
ゆえにこの休息は、サスケだけではなく、ケイにも必要なものといえた。ビスケットをかじる今も、ケイはもちろん警戒を続けているが、移動しながら次々と現れる地形に注意を払い続けるのと、一点に留まって周囲を警戒するのとでは、心理的負担が全く違う。
―あと十分ほど休憩したら、出発するか。
小川の澄んだ水を眺めながら、ぼんやりと考えていると、横でアイリーンが立ち上がる気配。
……ケイ、大丈夫か?
こちらを覗き込むように。視界に、アイリーンの心配げな顔が大写しになる。
……問題ない。気を張ってたから、ちょっと疲れただけだ
はは、と小さく笑って見せると、 ……そっか と呟いたアイリーンは、表情を曇らせたまま木の根の上に座り直した。
しばし、互いが互いの様子を探り合うような、そんな沈黙が流れる。
なんとなく気まずくなってしまった空気を誤魔化すように、視線を泳がせたケイは、首元に垂らした白い顔布をそっと撫でつけた。
それは、盗賊との戦闘で駄目になった元の一枚の代わりに、シンシアが出立前に贈ってくれたものだ。シンプルな白い布地に、一筋の赤い模様。彼女は裁縫が得意らしく、左端の頬にあたる部分には、赤い糸を使った可憐な花の刺繍が施してある。
これで可愛い雰囲気になりますよ、というのはシンシアの言だが―たしかに、刺繍そのものはよく出来ており、とても可愛らしいのだが、一応は戦装束である顔布にチャーミングな装飾を施すあたり、何か独特な彼女のセンスを感じる。
マンデルから忠告を受けた以上、ケイが顔布を使う時が来るとすれば、それは殆どの場合、対人戦闘を意味するのだが―。
小さく溜息をついて頭を振ったケイは、薬液が乾いてパリパリになった頬の包帯を撫でながら、ちらりと横を見やる。
木の根に腰かけるアイリーンは、足の爪先を伸ばしたり曲げたりしながら、頭上を見上げて木漏れ日に目を細めていた。風避けのマントに、刺繍の入った頭のスカーフ、さらさらと風に揺れるポニーテール。黒革の籠手に、革のベスト、ベージュのチュニックからすらりと伸びる脚は、“NINJA”の黒装束と脛当てに包まれている。