ぽこぽこと、抗議の拳が背中を叩く。ははは、と声を上げて笑いながら、ケイはひとり、弓を握る手に力を込めた。
†††
それから、しばらくして。
相も変わらず、周囲への索敵に神経を擦り減らすケイに、見かねたアイリーンが、街道を北に外れることを提案した。
曰く、小川を併走するように草原を突っ切って行けば道に迷う心配もなく、それでいて視界が開けるので、不意打ちを受ける可能性もぐっと減る、と。
よくよく考えてみればその通りで、ケイたちは馬車を抱えているわけでもなし、必ずしも整備された街道の上を行く必要はない。
アイリーンの助言通り道を北側に外れたケイは、草原の大地が描く緩やかな丘陵を眺めながら、しばしの心休まる旅路を満喫していた。
―しかし。
安らかなる時は、唐突に終わりを告げる。
あっ
後方を見張っていたアイリーンが、小さく声を上げた。 どうした と振り返ったケイは、見やる。
左手後方。距離は、五百メートルほどの彼方か。
草原の丘を越えて、続々と姿を現す黒い騎馬。
その数、八騎。
…………
二人の沈黙が、緊張を孕んだ。片手で輪を作り、それを望遠鏡のように覗き込みながら、ケイはさらに目を凝らす。
黒い騎馬を駆る者たち―細やかな紋様と、羽根飾りで彩られた革鎧。アジア系を彷彿とさせる濃い顔立ちには、独特なうねりを描く黒い刺青。何人かは、顔布を着けているようだった。
間違いない。草原の民だ。
不意に、脳裏にマンデルの言葉が甦る。
『―盗賊まがいの不義を働く草原の民もいると聞く』
ぐっ、と内臓を掴まれたかのような不安感が、腹の奥底から湧き上がる。
件の草原の民もケイたちの姿に気づいたらしく、数人がこちらを向いて、何やら言葉を交わしているのが見えた。
……絡まれたら厄介だ。街道に戻るぞ
う、うん
こくこくと、アイリーンが不安げに何度も頷く気配を背に、ケイはサスケを加速させて街道の方へと手綱を引いた。
ちらりと後ろを振り返ると、草原の民は、何故か、こちらへ馬首を巡らせ、
なんか、追ってきてるんだけど
そう言うアイリーンの声は、微かに震えている。それをよそにケイの瞳は、彼らが矢筒の口の覆いを取り外しているところを、捉えた。
…………
ハァッ、ハァッという、サスケの苦しそうな呼吸音が響く。
……連中、なかなか良い馬に乗ってやがる
舌打ち交じりのケイの言葉は、苦々しい。度々、振り返って確認するごとに、少しずつ彼我の距離が近づいていた。サスケにかなり無理をさせているにも関わらず―やはり、超過重量が、不味い。
オ、オレのせいだ、街道から外れようなんて、言ったから……
落ち着け、お前のせいじゃない
顔面蒼白なアイリーンに、間髪いれずケイは声をかける。
街道にいたら、気付かずに奇襲されていた可能性もある。早い段階で見つけられて、むしろ良かったぐらいだ
口ではそう言うものの、本当にそうだったかは、分からない。
ぺろりと唇を舐めたケイは、首に垂らしていた顔布をずり上げつつ、鋭い視線で周囲を見回した。顔布の赤い花の刺繍が、ひらひらと風に揺れる―。
そしてふと、前方に生い茂る木立に目を止めたケイは、
……アイリーン
っ、うん
前、見えるか。あの木立
うん
あそこで、悪いが、ちょっと降りてくれ
……えっ?
困惑の声。
もちろん、置いてくわけじゃないぞ。サスケを楽にしてやりたくてな
戦うのか?
ああ。連中は、どうやらヤル気のようだからな
ふん、とケイが小さく鼻を鳴らすと、アイリーンは、 そうか、分かった、……分かった と呟いた。
オレは……どうする。隠れとけばいいのか?
そうだ。連中に気付かれないよう降りて、じっとしておいてくれ。あとは俺が何とかする
…………
アイリーンは、何も言わない。そうしている間にも、目の前に木立が迫る。
そろそろだ、準備しろ。速度緩めるぞ
いや、大丈夫だ。速度はそのままで突っ切ってくれ
きっぱりとしたアイリーンの返答は、声こそは硬かったものの、それでも芯のしっかりと入ったものだった。
お前が身軽でよかったよ、鎖帷子を着てなくて正解だったな
そーだろ? だから何度もそう言ってるじゃねーか
全くだ。次の町に着いたら、一杯おごるぜ、相棒
ケイの軽口に、アイリーンは ハッ と笑い声を返す。
楽しみにしてるよ、相棒
がさりと、サスケが茂みを突き破り、木立に突入した。
狭まる視界。
木々の幹に、緑の葉に、ケイたちの姿が覆い隠される。
行けッ
あいよッ!
たんっ、とアイリーンがサスケの背中を蹴り、空中に浮かびあがった。
勢いもそのままに、革の手袋でしっかりと木の枝をつかみ、そのままくるりと身体を回転させつつ、ぱっと手を離した。
水平方向の運動エネルギーを回転で相殺し、別の枝へと跳び移ったアイリーンは、体勢が安定すると同時に素早い動きで、さらに樹上へと登っていく。
(……見事だな)
横目でそれを見送ったケイは、こんな状況下にあっても、感嘆の念を禁じえない。あれほどの勢いで跳び移ったにも関わらず、樹木は風にそよいだ程度しか揺れていなかった。この視界の悪さならば、ケイ並の視力でもない限り、絶対にバレることはない、と確信する。
続いてケイが、鞍に括りつけられていた荷物を次々に取り外していくと、見る見るうちにサスケの足取りが軽くなっていった。
木立を、抜ける。
ぶわりと、広がる視界。
何も遮る物のない、草原の大地。
どうやら襲撃者たる草原の民は、ケイが木立の中に居座る可能性を考慮していたらしい、二手に分かれて木立を挟み込み、包囲するようにして前進していた。
その数は、変わらず八騎のまま。アイリーンには気付いていないようだと、ケイはひとまず安心する。彼らは真っ直ぐに突き抜けたケイの姿を確認するや否や、小魚の群れがそうするように、再び合流して追いかけてきた。
カヒュッ、カカヒュッカヒュンと、乾いた連続音。
鈍い殺気を背中で感じ取り、弾かれるように振り返ったケイは、己の”受動感気(パッシブセンス)“の導くままに左手を振るう。
パシッ、という音を立てて、ケイに命中するはずだった矢が、朱色の弓に叩き落とされた。他の矢は近くをかすめ飛びつつも、ケイ・サスケ両者とも害することなく、草原の大地に突き刺さる。
(―射かけて、来たな?)
心の中で、問いかけた。
こちらから、先制攻撃を仕掛けるつもりは、なかった。なぜなら、本当に敵かどうか、分からなかったからだ。