……隊長が、死んだ。俺たち以外は、皆、やられた……
居間に入ると同時に老人が問いかけ、右肩を負傷した茶髪の男―パヴエルが、喘ぐように答えた。 何だと…… と眉をひそめる老人をよそに、短髪の男は右肩を押さえながら、壁に背を預けてずるずると床に座り込む。木の棒にすがりながらよろよろと歩くもうひとりの男―ラトは、 ぉぉぉぅ…… と苦痛の呻きを上げながら、居間の椅子にゆっくりと腰を下ろした。
信じられん……。モリセットめ、あやつ、くたばりおったか……
…………
パヴエル、一体何があった。モリセット(あやつ)はそうそうヘマをするような男ではなかろう? 襲う相手を間違えたか? それとも、逆に襲撃を受けたのか?
…………
老人の問いに、しかし『パヴエル』と呼ばれた短髪の男は、俯いたまま答えない。
おい、パヴエル?
若干慌てた老人が、しゃがんでパヴエルの顔を覗き込むと、どうやら話を始める前に気を失ってしまったらしい。
首筋に手を当て、パヴエルの呼吸と脈があることを確かめた老人はしかし、それがごくごく弱いものであると気付いて これは不味いぞ とやおら立ち上がった。
ロミオー! こっち来い!
ぱんぱんと手を叩きながら声を上げる。 はいッ! と奥の部屋から返事が聞こえ、茶色の癖っ毛を跳ねさせた小間使いの少年が、居間にひょっこりと顔を出した。
ロミオ、ギスラン先生を呼んでこい。急患が二人だ、そう伝えろ
わっ、わかりました
居間の負傷者二名にぎょっとした顔をしつつ、ロミオと呼ばれた少年が駆け足で家を飛び出していく。
しかし……モリセットが死んだか……
あごひげを撫でながら、虚空を睨むようにしていた老人だったが、ふと、黙ったまま椅子に座り、昏(くら)い目で床をじっと見つめるラトに目を止めた。
……ラト、お前もずいぶんやつれてるな。一瞬、誰だか判らなかったぞ。どこを怪我した? 足をやられたのか?
……
その問いかけに、ラトはゆっくりと、顔を覆っていた布を取り外した。布の下から露わになった『傷』に、老人は口元を押さえ うっ と数歩後ずさる。
でろり、と。
垂れ下る、赤黒い、ぐしゃぐしゃに崩壊した肉の塊。ところどころに散らばる白い欠片が、折り砕かれた歯と骨であることに、数秒してから気付く。
ラトの、顔から下半分が、消失していた。
口腔から喉の奥にかけてが、丸見えになっている。僅かに、傷だらけになりながらも、残っている舌が蛇のように蠢いていた。 やぁぇ、ぁぁぅ と、ラトが言葉にならない呻き声を上げるたび、だらだらと唾液が糸を引いて垂れていく。
―やつれるはずだ。
老人は思う。こんな、『口』ともいえない口では、ろくに物が食べられるわけがない。旅の糧食として重宝される堅焼きのビスケットなど、もってのほかだ。極限にまで磨り潰した粥ですら、食べるのは厳しいだろう。
……一体、お前たちは何とやり合ったんだ
思わず、といった様子で老人が呟くと、 あぃうあああぁッ!! と叫んだラトのまなじりが釣り上がった。
あぃぅああぁぅああッ! あぃぅ、おおぃぇあぅ、おおぃえああぅッッ!
顔の残った部分を真っ赤にし、だらだらと口腔から唾液を垂らしながら。
おおぃぇあぅゥッッ! ええぁいいッおおぃぇぁっぅおあいぅゥッ!!!
叫びとも悲鳴ともつかぬ声を上げ、ラトが腰からさっと短剣を引き抜いた。びくり、と身体を硬直させた老人だったが、ラトはその短剣をバンッ! と乱暴に、机の上に叩きつけただけだった。
鈍い、くすんだ銀色の刃。こびりついたどす黒い血。ハウンドウルフの血―。
おぇぁ、あぃぅぉえんぁ
……すまん、何が言いたいのか分からん
困惑の表情で、及び腰の老人は首を横に振る。
おぇぁ、あぃぅぉ……あぃぅぉ、あぃぅぉあぃぅおぉぉおおおぉッッ! おおおおぉオオオォぁぃぁぁっォォォッッッ!
バンバンバンと狂ったようにテーブルを叩きながら、ラトは首をめちゃくちゃに振り回し、駄々っ子のようにただ叫ぶ。
おおぃぇあゥッ! おおぃぇあゥッ! おおぃぇ、おおぃぇあぅウッ! おおぃぇあぅウぅぅぅッッッ! おおぃぇあぅ、おおぃぇぁぅッ、おおぃぇあぅウッ! おおぃぇあぅウウウウウウウウぅぅッ!
しばらく叫び続けていたラトだったが、やがてその言葉は勢いを失くし、ただ昏い瞳で床を見つめ、何事かを呟くのみとなった。
老人は、ただそれを、引き攣った顔で眺めていた。
その後、小間使いの少年が連れてきた村の薬師―という名目の、専属の医者に二人を任せ、老人は浮かない顔で自室に引きこもる。
机の前、安楽椅子を揺らしながら、額を押さえて はぁ…… と大きな溜息をついた。
……まったく。モリセット隊は壊滅、ラトランドは気狂い、何が起きたかを知るパヴエルは重体、か
近頃は暇だ、などと思っていたらこれだ。こんな厄介事は御免だ、ともう一度溜息をつきつつ、
まあ、とりあえずの報告はせねばなるまいて……
机の引き出しから、小さな紙切れを一枚取り出した。羽ペンを手に、老人は目を細めながら、紙面に何事かを書きつけていく。
……ふむ
そして羽ペンをインク差しに戻したとき、紙切れにはびっしりと幾何学的な模様が描かれていた。
引き出しからもう一枚、今度は羊皮紙を取り出した老人は、紙切れの内容と羊皮紙の内容を見比べるようにして、念入りに目を通していく。
よし
数度の確認を終えた老人は、ローブの胸ポケットからホイッスルを取り出し、窓の外に向けてそれを吹き鳴らした。
ピィーッという甲高い音が、外の鬱蒼とした森に響き渡る。
やがて、バサバサと羽音を立てて、大きな黒い鴉が森の中から現れた。窓枠にしっかりと止まり、まるで血のような赤い瞳でこちらを見つめる。その右脚には、革製の小さなポーチのようなものが、ベルトで括りつけてあった。
さぁ、仕事の時間だぞ
チッチッチッ、と舌を鳴らしながら、老人は机の上に置いてあったサラミを一切れ手に取り、鴉に食べさせる。鴉が首を振ってそれを飲み込もうとする間に、右脚のポーチの中に紙切れを仕舞った。
これでよし、と。……さて、
んんっ、と咳ばらいをした老人は、鴉の眼前に右手をかざし、
―Al la kastelo.
ぎらり、と赤い瞳を輝かせた鴉は、ばさりとその翼を広げた。
ガァーッ、ガァーッと耳障りな鳴き声を上げながら、空へ向かって羽ばたいていく。それを見守りながら、老人はゆっくりと安楽椅子に座り直した。
気流を捉え、天高く昇った鴉は、二度、三度。
上空を旋回し、その進路を真っ直ぐ南へと取った。
老人の視界の中、高みを羽ばたく鴉は、まるで黒い砂粒のようで。