しかしそんな薄汚れた道を、一人の男が行く。
手入れを怠り、ぼさぼさに伸びた黒い癖毛。随分と着古しているのか、すっかり色の褪めてしまった衣服。その目つきは何処かおどおどと落ち着きなく、ゴツい身体を縮こまらせるようにして、速足で歩いていた。
男の名前を、『ボリス』、という。
サティナの街で、かつて矢の生産に携わっていた―『元』職人。
スラムの中の複雑な路地を、ボリスは迷うことなくずんずんと進んでいく。右から左へ、左から右へ。あばら家が形成する、まるで迷路のような小道。
どれほど歩いたであろうか。ボリスはスラムのさらに西、人通りの少ない寂れた通りに出た。
猫背のまま、あばら家に寄りかかり、小さく溜息をついて足を休める。見回せば、周囲に人影はほとんど見当たらない―ほんの、数人を除いて。
小さな椅子に腰かけた、怪しげな雰囲気の老婆。ボロボロの小汚い机に、水晶の欠片や動物の骨を並べている。小銅貨の入った皿を置いているあたり、物乞いの傍ら占い師でもしているのか。ボリスがすぐそばに立っていても、俯いたまま、彫像のように動かない。
そして道の反対側には、地べたに座り込んだ、険悪な目つきの薄汚い男たち。錆びついた剣を大事そうに抱える彼らは、その顔に黒々とした刺青を刻んでいた。十年前の戦役で故郷を追われ、浮浪者に堕ちた草原の民か。
あるいは―。
きっ、と鋭い視線を向けられたボリスは、慌てて男たちから目を逸らした。
…………
街の喧騒は遠く、よどんだ空気は重く。路地裏を吹き抜ける風は、かすかな緊張を孕んでいる。
ただ、不穏な静けさだけが、そこにはあった。
…………
たんたん、たんたんたん、たん、と。
その沈黙を打ち消すように、ボリスは足を踏みならす。
たんたん、たんたんたん、たん、と。
まるで暇を潰す子供のように。
……そこなお方
そのとき初めて、老婆が動いた。
緩慢な動作で、ボリスの方を向いた老婆は、にやりと、黄ばんだ歯を剥き出しにして、笑う。
……鴉を、見らんかったかね。鴉を
その問いかけに、ボリスはやや緊張しながら、 ああ、見た とだけ答えた。
そうかえ。わしも、見た。黒い鴉じゃ……
げっげっげ、と不気味に笑う老婆の瞳は、白く濁っている。その盲(めしい)た瞳で、何を見たというのか―。
……座りなされ。未来を、占ってしんぜよう……
老婆の言葉通りに、ボリスは対面の席に着く。ギシッ、と小さな椅子の軋む音。 お手を拝借 と言う老婆へ、黙って右手を差し出した。枯れ枝のように細い腕が、ボリスの手を撫でつける。
……。白じゃ
ぼそりと、老婆が告げた。
白の、羽じゃ。気をつけなされ。彼の者は、主(ぬし)に、死を運んでくる……
その不吉な言葉に、ボリスはごくりと生唾を飲み込んだ。
白い羽を避ければ、大丈夫なのか
……そうさの
曖昧に頷く老婆が、撫でつける手を引いたとき。
ボリスの手の平の上には、小さな金属製のケース。
さぁ……行きなされ。残された時間は、あと、僅か……
ケースを懐に仕舞い、無言で立ち上がったボリスは、足早にその場を去った。
背中に、剣を抱えた男たちの、じっとりとした視線を感じながら―。
来た道を、ただ引き返す。
夕暮れの、薄汚れた小道。しばらく歩いて、前方に見えてきたのは、サティナの街の城郭だ。スラムと旧市街を繋ぐ小門の前には、南の正門ほどではないが、街に入るために列をなす人々の姿があった。
黙って、ボリスも最後尾に並ぶ。列は、五人ずつに小分けして、チェックを受けているようだった。短槍を装備した、厳しい面持ちの衛兵たち。ボリスは落ち着きなく、たんたん、たんたんたん、と貧乏ゆすりをする。まるで、待ちくたびれた子供のように。衛兵の一人が、そんなボリスを胡散臭げに眺めていた。少しずつ、だが着実に、列は進んでいく。
次ッ! 五人、入れッ!
ボリスの番が来た。前に一人、後ろに三人。ぞろぞろと小門の中に入る。
よし、全員その場で靴を脱げ! 両手は頭の後ろだッ!
門の中、仁王立ちになって叫ぶ一人の衛兵。他の衛兵たちとは違い、金属製の胸甲を着けている。その兜には、白い羽飾り―上級将校、隊長格の証だ。一瞬、身体を強張らせたボリスは、白羽の隊長格と目が合いそうになったので、慌てて俯いた。
……ん?
しかし、その様子を怪しいと思ったのか。ざっざっ、と足音を立てて、ゆっくりと隊長格がボリスに近づいてくる。
口の中が、からからに乾いていた。必死に、祈る。
ただ、目立たないようにと。その辺に転がる石のようであれと―。
貴様ッ、何を隠しているッ!!
恫喝の声。思わず顔から血の気が引いたが、しかし、その声はボリスに向けられたものではなかった。
見れば、隣。ボロ布をまとったような格好の痩せた女が、衛兵に殴り倒されている。
隊長! この女、靴の中にこんなものを……
衛兵の一人が、隊長格に小さな革袋を差し出した。厳めしい表情でそれを受け取った隊長が、袋を広げて中を検める。
さらさらと、こぼれ落ちる白い粉。
指先についた粉を舐め、ぺっとそれを吐き出した隊長格は、
……麻薬だ
わっわたしは知りません! 身に覚えが―
ええい、黙れッ! じたばたするなッ!
震える声で叫ぶ女を、衛兵たちが警棒で更に殴りつける。
やめろッ! それ以上殴るな!
が、隊長格が衛兵たちと女の間に割って入り、ただちに暴行を止めさせる。縋るような目つきで隊長格を見る女に対し、門の内扉をくいと顎でしゃくって見せた彼は一言、
連行しろ
ガシッと、屈強な衛兵が二人、女の両脇を掴んで無理やり立たせる。
そいつには幾つか、聞きたいことがある。丁重に扱えよ……今(・)は(・)殺(・)す(・)な(・)
その、まるで虫けらを見るような酷薄な目に、顔面を蒼白にした女はがたがたと震え出した。
いっ、いやッ! 違うのっ、本当に知らないの! 助けてっ、誰かッ、誰かぁ!
クソッ、暴れるな!
連れて行けッ!
半狂乱になった女が暴れ出すが、しかし抵抗もむなしく、城壁の内側の詰所へと連行されていく。
……馬鹿な奴だ、あれで奴隷落ちだろ……
……いや……最近はさらに厳しく……
……運び人……例外なく斬首……
……“尋問”の最中に死なない限りは……
それを見ていた順番待ちの人々が、ひそひそと言葉を交わすが、隊長格の大きな咳払いに、皆ぴたりと口を閉ざす。
さあ、じっとしてろよ
ボリスの前にも、一人の衛兵がやってきた。乱暴な手つきで、足元から上へとボディチェックがなされる。それをじっと見つめる白羽の隊長格。衛兵の探る手が、遂に懐の金属ケースに、触れた。